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滝おやじの出向記録  2014年度分     
23.2014年08月 銚子市名洗 海食崖面測量
22.2014年08月 銚子市高神 コンビニ前の新露頭
21.2014年07月 二本松市小浜 かっか石
20.. 2014年07月 三春町蛇石 厳島神社蛇石   2014年8月13日アップ
19.2014年07月 石川町八幡山 鏡岩
18.2014年07月 石川町八幡山 勾玉岩・石門巨石群
17.2014年07月 石川町八幡山 三葦城址巨石群
16.2014年07月 石川町八幡山 塩竈神社巨石群
15.2014年07月 石川町八幡山 参道A群・天狗岩
14.2014年07月 石川町八幡山巨石群 剣石
13.2014年07月 丸森町丸森 百々石公園巨石群
12.2014年07月 丸森町図書館
11.2014年07月 東北道展望の山
10.2014年07月 銚子市小浜 離れ島・波食台・懸谷滝
09.2014年05月 山梨市牧丘西 花後薬師丘巨石群
08.2014年05月 山梨市牧丘西 大石山指門石巨石群
07.2014年05月 山梨市牧丘西 大石山甲石巨石群
06.2014年05月 山梨市牧丘西 大石山屏風石巨石群
05.2014年04月 銚子市春日町懸谷6の火山灰露頭
04.2014年04月 旭市塙 地形面露頭
03.2014年04月 山梨市牧丘西 大石山B群〜Y群巨石群
02.2014年04月 山梨市牧丘西 花後薬師の丘巨石群
01.2014年03月 銚子半島犬若 本家の台
滝おやじの出向記録  2013年度分     
86.銚子市春日町・名洗町 屏風ヶ浦海食崖名洗層の微地形 2013年12月
85.銚子市三崎町大谷津団地 風隙6付近 火山灰鍵層 2013年12月
84.銚子市犬若 名洗港海浜公園展望地点調査 2013年12月
83.旭市飯岡港 展望地点調査 2013年12月
82.銚子市小浜町 懸谷2東方展望地点調査 2013年12月
81.銚子市愛宕山山頂 展望地点調査 2013年12月
80.宮城県丸森町筆甫 大聖不動堂仏体石 2013年10月
79.宮城県丸森町筆甫 経石 2013年10月  2014/02/26アップ
78.宮城県丸森町筆甫平場 コアストーン露頭 2013年10月
77.宮城県丸森町上滝 不動尊公園巨石 2013年10月
76.宮城県角田市笠島 立石 2013年10月
75.宮城県丸森町羽生 立石 2013年10月
74.宮城県丸森町 一富士山展望 2013年10月
73.宮城県丸森町 太郎次郎山展望 2013年10月
72.岩手県一関市藤沢町増沢 立石 2013年9月
71.岩手県一関市大東町大東 続石 2013年9月
70.岩手県花巻市東和町迫 立石神社雨乞石 2013年9月
69.岩手県花巻市石鳥谷町戸塚 大石神社大石 2013年9月
68.岩手県花巻市石鳥谷町五大堂呼石 夜鳴き石 2013年9月
67.岩手県花巻市東和町谷内 胎内石 2013年9月
66.岩手県花巻市東和町毒沢 蝙蝠岩 2013年9月
65.岩手県花巻市高松 鞍掛石 2013年9月
64.岩手県遠野市綾織 続石 2013年9月
63.岩手県遠野市綾織 羽黒石 2013年9月
62.岩手県遠野市宮守町上宮守 呼ばれ石 2013年9月
61.岩手県遠野市 二ク山と新田山展望 2013年9月
60.岩手県遠野市土淵町栃内 舌出岩 2013年9月
59.岩手県遠野市土淵町栃内 小烏瀬の滝 2013年9月
58.山梨県道志村椿 宝永沢川 雄滝・雌滝 2013年8月
57.山梨県山中湖町平野 石割神社の大石 2013年8月
56.山梨県山梨市西 大石山の大石 2013年8月
55.銚子市名洗 屏風ヶ浦海食崖名洗層の微地形 2013年8月
54.福島県郡山市丹伊田 鹿島神社神体石(ペグマタイト岩脈) 2013年8月
53.福島県二本松市安達ヶ原 観世寺 鬼の岩屋 2013年8月
52.福島県本宮市和田 岩角山 六地蔵石・座禅石 2013年8月
51.福島県福島市立子山 鯨石、船石、太鼓石 2013年8月
50.福島県福島市稲荷山 五輪石 2013年8月
49.福島県福島市稲荷山 的場石 2013年8月
48.福島県浅川町山白石字破石 破石 2013年8月 2013/10/28 アップ
47.銚子市三崎町 屏風ヶ浦海食崖春日層の微地形 2013年7月
46.旭市下永井 屏風ヶ浦海食崖横根層・小浜層の微地形 2013年7月
45.旭市下永井 屏風ヶ浦海食崖香取層の崩壊地形 2013年7月
44.福島県飯野町青木 岩塚 2013年6月
43.福島県福島市飯野町大久保 留石 2013年6月訪 2013/07/09アップ
42.福島県福島市飯野町大久保 ドンドン山の大石 2013年6月訪 2013/07/16アップ
41.福島県福島市飯野町大久保 モアイ石 2013年6月訪  2013/07/22アップ
40. 福島県福島市飯野町大久保 高石 2013年6月訪 2013/08/03アップ
39.福島県福島市飯野町飯野 藤加羅神社 立つ石 2013年6月訪 . 2013/07/07アップ
38.福島県二本松市鈴石町 鈴石 2013年6月訪 2013/08/05アップ
37.福島県二本松市太田、白鬚宿 天神遊び石 2013年6月
36.福島県本宮市長屋 鼓石 2013年5月
35.福島県本宮市和田 農村公園 2013年6月
34.福島県本宮市和田 岩角山 山頂・山腹の巨石群 2013年5月 6月
33.福島県本宮市和田 蛇舐石(じゃねぶりいし) 2013年5月訪 
32.福島県二本松市錦町2丁目 明神尊 御神楽岩 2013年5月
31.福島県二本松市錦町2丁目 立石・烏帽子石 2013年5月
30.福島県二本松市錦町2丁目 烏石山 弁天岩・庚申岩・烏石 2013年5月
29.福島県二本松市錦町2丁目 血吹石・耳垂れ石・道陸神 2013年5月
28.福島県二本松市舟石 舟石
   2013年5月  
27.福島県二本松市上川崎 七石山公園 巨石 2013年5月
26.福島県二本松市上川崎 三ツ石稲荷神社 三ツ石 2013年5月
25.福島県二本松市太田、白鬚宿 椿石・蛙石・庚申塔立石 2013年5月. 6月
24.福島県二本松市太田、白鬚宿 二十三夜塔 2013年5月.
23.福島県二本松市太田、高槻 博打石 2013年5月.
22.福島県二本松市木幡 胎内くぐり岩 2013年5月 
21.福島県二本松市立石、山の神・立石 2013年5月
20.東京都北区岸町 名主の滝公園の滝 2013年5月 2013年街中ジオ散歩 in Tokyo 観察会参加
19.山梨県甲州市勝沼町中原 鎧石 2013年4月
18.甲府盆地南東方向の山地展望 2013年4月
17.山梨県山梨市牧丘町室伏 日吉山王神社の巨石群 2013年4月
16.山梨県甲州市塩山上萩原 踊石 2013年4月
15.山梨県甲州市塩山上小田原 裂石 2013年4月
14.山梨県甲州市勝沼町綿塚 大石神社、等々力 萬福寺の馬蹄石 2013年4月
13.山梨県山梨市西保中 笠石神社の巨石 2013年4月
12.山梨県甲州市深沢 大石神社の巨石 2013年4月
11.南房総市野島崎展望 2013年4月
10.秩父盆地役場めぐり 2013年4月
09.車が来ました。 2013年4月
08.銚子市西小川町 屏風浦海食崖の風食地形 2013年4月
07.長柄町船木大滝 2013年3月
06.南房総市丸山川滝ノ沢 川廻し地形 2013年3月
05.いすみ市万木城展望 2013年3月
04.睦沢町女ヶ堰の滝 2013年3月
03.銚子半島一見 2013年2月
02.香取市長岡不動堂の滝 2013年2月
01.香取市香取神社要石 2013年1月
滝おやじの出向記録  2012年度分     
48.2012年12月 香取市香取神社要石 
47.2012年10月 山梨市立石神社、巨石群
46.2012年10月 山梨市石森山、巨石群調査データ補足
45.2012年10月 屏風ヶ浦大谷津団地風隙6の地層
44.2012年09月 山梨市牧丘西大石山、屏風石巨石群
43.2012年09月 山梨市牧丘西大石山、甲石巨石群
42.2012年09月 山梨市牧丘西大石山、採石場
41.2012年09月 山梨市牧丘西大石山、鎧石
40.2012年09月 山梨市石森山、巨石群調査データ
39.2012年08月 乙女高原、地形観察
38.2012年08月 芦川、鳥坂峠、新道峠
37.2012年08月 山梨市牧丘西、大石山概査、調査立案
36.2012年08月 山梨市石森山 概査と調査立案
35.2012年08月 山梨市より帯那山方円展望
34.2012年08月 足利市名草奥の院巨石群 測量
33.2012年07月 足利市名草貫入岩体周辺地形露頭
32.2012年07月 足利市名草弁天奥の院巨石地形、測量
31.2012年07月 足利市名草弁天の巨石地形
30.2012年07月 足利市名草弁天参道の微地形
29.2012年07月 足利市名草、名草上町 チャート山展望
28.2012年07月 屏風ヶ浦磯見川河口、沖積面露頭
27.2012年06月 筑波山弁慶七戻り〜屏風岩微地形  測量
26.2012年06月 筑波山つつじヶ丘〜稜線の微地形
25.2012年06月 屏風ヶ浦風隙10の海食崖微地形
24.2012年06月 屏風ヶ浦名洗遊歩道の海食崖微地形
23.2012年05月 筑波山北からの登山道微地形
22.2012年05月 三芳村増間 坊滝
21.2012年05月 三芳村増間廃寺址
20.2012年05月 三芳村大日山山頂歴史資料
19.2012年05月 筑波山女体山国割石〜山頂の奇石群
18.2012年05月 筑波山女体山弁慶七戻り微地形
16.2012年04月 芦川上九一色村古関〜上流土石流扇状地
15.2012年04月 芦川左右口峠 露頭と地形
14.2012年04月 芦川上九一色村松原王岳展望
13.2012年04月 芦川左右口トンネル絵えの道展望
12.2012年04月 筑波山女体山鶺鴒岩・蝦蟇石
11.2012年04月 筑波山男体山周回路の地形
10.2012年04月 筑波山男体山立身岩と展望台露岩
09.2012年03月 寄居町玉淀大橋より奥武蔵山地展望
08.2012年03月 飯能市黒山不動からの展望
06.2012年03月 東松山市高野橋から奥武蔵山地展望
05.2012年03月 小川町金勝山から奥武蔵山地展望
04.2012年03月 御嶽ケーブルカー展望台から関東山地展望
03.2012年03月 八王子市役所・鶴巻橋から関東山地展望
02.2012年03月 関東山地の山展望 プラン
01.2012年02月 万田野の砂取場から展望
13-48 福島市浅川町山白石 破石 出向記録 2013年8月訪 

破石 高さ8m幅9.5m 大きい!
<発端> 
 花崗岩の巨石地形事例を集めるため、福島県の阿武隈花崗岩露出地を廻っています。2013年8月に訪問しました。

 この地方の巨石の事例は、インターネット上のyo-hamada氏のブログ「巨石!私の東北巨石番付」 (http://hamadas.exblog.jp/ 20130522現在) から所在情報を得ています。 この破石もその一つです。
 yo-hamada氏のブログによると、集落名「破石」の元になり、神社の名前にもなっている巨石とのことです。巨石としての紹介も、yo-hamada氏によるのが最初のようです。
 ブログの画像を見ますと、巨石が単体で山地斜面の下部に突出し、さらに、2つに割れています。このような立地と形態の特異性が何故できたのか、巨石の成り立ちに興味を持って訪れてみました。

 結果は、巨大なコアストーンが小さな尾根上部に露出していたのが、滑り落ち、落ちた先で停止後自重により傾斜方向に直行する割れ目が入って2つに破断したものと判断しました。


<到達ルート>
 

・所在地 福島県石川郡浅川町山白石 字破石(われいし)。右図参照。石の側まで、車なら容易です。
・緯度経度・標高 北緯37°06′29.21″
 東経140°27′00.96″(世界座標)
 標高410m付近
・地形図は、5万「棚倉」、2.5万「磐城石川」
・破石へのルートは、道路から対岸の山斜面下に巨岩と破石神社の小さな石鳥居が見えるので、容易。
・・・・立地の画像参照。
・付近には、コアストーンが多く露出しています。破石地区では、この破石と達磨石(個人宅の敷地内にあり、yo-hamada氏のブログにも紹介されている)が目立って大きい。
・破石の先の村境にも大きな石があるが未調査。
<こんな石があった:立地と形態>

正面より


側面より
  形態
・正面高さ8.0m 幅9.5mの三角形の巨石で、斜面に平行に手前と奥で大きく2つに割れ、手前側は1〜2m滑っています。
・割れる前の奥行き6.5m。 元々は一体の巨大なコアストーン塊でした。
 展開図(下図)を作成・・・参照。 寸法は、上画像の竹竿4.4mなどを利用して測定。

・石を二分割する大開口の割れ口は、平滑面でなく曲面をなしていますので、開口形式は、木の根開口ではなく重力破断開口です。   
・後石の側面には、2カ所で大木が根を張っている割れ目があります。

・岩塊周囲は、コアストーンの風化球面が全面的に残っています。
・岩質は、阿武隈山地の白亜紀新期花崗閃緑岩。 ⇒右の図 おちていたはへんの新鮮な断面。


・岩塊底部には、マサがあり、岩塊は根石ではありません。また、背後の地形から見て、現在位置にあったコアストーンが掘り出されて露出したものではなく、背後の稜線斜面から滑って移動してきたものです。

・コアストーンの形を復元しますと、おむすび型のコアストーンで、周囲全面と円頭が残っており、地中で風化により形成されたおむすび型のコアストーンが、転倒せずにそのまま滑り降りてきたものと考えられます。
   立地
 標高410m付近にあり、山地地形面は阿武隈山地の低位小起伏面にあたります。・・・・形成期は、更新世初期。

・石の上部斜面は、スプーン状にえぐれた地すべり跡状の斜面で、コアストーンとして、当初露出していた場所は、丘陵性の山地の標高420〜410mの小さな尾根稜線と思われます。・・・図参照。
 <解釈:成因:当初の復元→変化史 変化の原動力> 

1.巨大なコアストーンが小さな尾根先端斜面上部に露出していました。
 (8.5+α)×9.5×6.5mで、単体コアストーンとしては有数の大きさ
2.地すべり状の動きで尾根先端が滑り落ち、落ちた先で安定。
3.この時代は未詳。古くは、更新世末期の氷期に当たり、周氷河作用により滑り落ちた可能性もありますが、 完新世に入ってからの小規模な地すべりによる地形とも考えられ、標高も低いので、ごく新しい地形である可能性の方が高い。
4、逆に現代から見ますと、この時代は地名起源でもありますし、江戸時代以前にさかのぼると思われます。
 稜線肩露岩・地すべりによるすべりの例は、 丸森の経石、花巻の胎内石。 
5.移動後、自重により傾斜方向に直行する曲面割れ目が入って2つに破断しました。
 この時期は地名起源でもありますし、江戸時代以前にさかのぼると思われます。ただし、破断面はすごく新鮮 で、風化していないように見えます。・・・だから新しいとは云えませんが。
 類例は、名草の弁慶割石、大菩薩の裂石、飯野の高石、など多数。
 ものと考えられます。
露出したコアストーンが重力破断により大きく割れている事例

栃木県足利市名草 弁慶割石

山梨県山梨市上石森 石森山子持ち石

山梨県甲州市上萩原 裂石

 <どのように利用されているか:歴史資料> 

・ブログによれば、集落名「破石」の元になっている巨石で、石をご神体とする祠の名も、「破石神社」であるとのこと。
・祭神名は、祠の中に札があり、天之石戸別命と石凝姫命とわかりました。

・石鳥居の束柱に、「破石神社」と刻まれていた。

・祠の中に納められていた、祠の建立の際の納札銘文。
 ・・・埃で汚れていて、現場ではこのぐらいしか読めませんでした。
  清掃すれば下部も読めると思いますが、そこまではしませんでした。

 奉遷宮破石神社□□□□
祭神天之石戸別命□□□□
祭神石凝姫命□□□□


 
境内の石祠:祭神不明

 
 石鳥居
 (以上)
40〜43 福島市飯野町大久保 留石公園の巨石 出向記録 2013年6月訪       

  43.留石(とめいし)  
  42.ドンドン山の大石
  41.モアイ石
  40.高石
<発端> 
 花崗岩の巨石地形事例を集めるため、福島県の阿武隈花崗岩露出地を廻っています。6月に、巨石の位置情報がパンフで紹介されている福島市飯野町(旧飯野町)を歩きました。
<到達ルート>  留石公園まで

 2.5万、5万地形図は川俣。
 まずは、留石公園の中央、273.2mの三角点・留石地点まで行きます。
右図参照。小型なら車でいけます。ただし、狭く、急、未舗装ですので、条件の悪いときは乗り付けるのは、無理でしょう。

そこは、留石のある小丘の下で、手前に公園の案内地図看板と案内標があります。
看板地図には、他の4つの巨石(ドンドン山の大石・モアイ石・高石・行灯石)の位置があります。
 <5つの巨石、立地特性> 
 飯野町発行の1万分の1地形図に、赤で巨石位置と道を記入しました。
 行灯石へのルートは、未踏査ですので推定。
 地質は、地質図では粗粒花崗閃緑岩(角閃石・黒雲母花崗閃緑岩)です。ただし、岩相はその花崗閃緑岩が風化したマサが大部分で、マサ中に未風化のコアストーンが散在しています。
 このような、未固結な粗粒砂中に未風化の堅硬なコアストーンが散在する岩相の岩石からなる山地が、侵食を受けているので、コアストーンが侵食に対する抵抗点になり、山頂や稜線末端の肩となっています。
 図中の5つのコアストーン巨石と地形との立地関係でも、上記の関係が見られ、巨石は、山頂にあるか、あるいは、山頂に続く平坦な稜線の末端の肩部分にあります。

 内訳を見ますと、留石と行灯石は、山頂部立地のコアストーンで、この未風化岩塊が抵抗して山頂になっていると考えられます。
 一方、他の3つの巨石はいずれも、平坦な主稜線末端の肩地形にあります。・・・1万図および位置図参照。
 ただ、3つの巨石の立地は共通していますが、露出の様子は異なり、モアイ石は、稜線肩の基盤露出。高石は、稜線末端のコアストーン群、 ドンドン山の大石は、稜線末端の単独コアストーンという違いがあります。

<行灯石について>
 今回、時間切れと、道が草で、行灯石には行きませんでした。
 公園の所在位置図から、1万分の1地形図上で位置推定してみますと、広域農道東方に続く山の山頂直下緩斜面上にあるらしく、「巨石探訪」の文章と画像から推定しますと、留石と同じような山頂コアストーンが少し移動して、破断面が露出しているものらしいです。
 <以下、各石の様子>
  43.留石  
  42.ドンドン山の大石 出向記録 
  41.モアイ石  
  40.高石 ・・・・作成中

43.留石(とめいし) 
<発端> 
 飯野町発行のパンフレット「飯野町巨石探訪」に、山頂にある完形のコアストーンらしき記載がありますので、訪ねました。
 名称: 留石 とめいし
 所在地:福島市飯野町大久保 留石公園 三角点237の近く。
 後で知りましたが、この石は、飯野町史、地質の項にある地質図に、コアストーンとして記載されていました。
 地質は、粗粒花崗閃緑岩(角閃石・黒雲母花崗閃緑岩):飯野町史による
 山頂の緩斜面にあるコアストーンとして典型的な形でした。

「飯野町巨石探訪 飯野町刊」} の記載============================================
留石 とめいし
1674年の総検地の際にこの名が付けられたという
・遠く安達太良連峰を望む見晴らしのよい高台にある「留石」。

 米沢藩の60余年にわたる長い支配が終わり、信達両郡が幕府直轄領となって寛文4年から代官の支配となりました。
福島代官の国領半兵衛は、寛文11年(1671)3月から延宝2年(1674)10月までかけて信達両郡の総検地(土地の面積を計り税金等の算定基準にする。現在の国土調査)を行いました。小手郷内(現在の月舘町、川俣町、飯野町)村々の検地は秋山村(川俣町秋山)より始まり、大窪村(飯野町大字大久保)の字久保山にあった大石の所で検地が終了したので、ここで「留る」と言うことからこの石を[留石]と呼ぶようになったというのが留石の由来です。
 また、最近の調査で、この場所が館跡ではないかと言うことが分かってきました。隣接する山林にも昔の遺構が残っています。見通しの良い場所で、北側には鼠舘や越中舘、南は苅松田城、西には向舘、南西に針木戸舘などが見渡せます。何か事あれば「のろし」などで連絡がとれる距離でもあり、当時が偲ばれます。
 留石は現在公園化され、桜の名所として春から秋にかけて多くの人の憩いの場として親しまれています。
 留 石
■所在地:飯野町大字大久保字久保山
■寸 法:最大地上高2m80cm 最大周囲長8m
================================================================== 
 <留石の立地>
山頂の緩斜面上に、小丘があり、2つの露出コアストーンとその下に複数の埋没コアストーンからなっています。
丘の裾に、転落移動したと思われる、コアストーン岩塊が1つ見られます。





岩質は、粗粒花崗閃緑岩。露岩は表面がかなり風化が進みもろくなっています。


 <岩塊の微地形>

 いずれも、表面は風化してもろくなっていますが、風化球面で、破断面は見られません。
 この形は、山頂平坦面にある無移動のコアストーンに通例の形です。
 2つの露出コアストーンは、下に埋没コアストーンがあるが、明らかに下とは分離した岩塊になっていて、根石ではありません。

 
 
 上左:東側下部から見上げた2つのコア石

 上右:北側山頂側から見下ろした上のコア石

 左 :西側から、見上げた上のコア石  
 
 転落岩塊
西側の下部に一部破断面が見られるが、大部分は風化球面のまま。 転倒して、緩斜面上に横たわっている。
 転落岩塊 西側より         南側より →
   <歴史資料> 
公園の説明看板銘文。 「巨石探訪」と同趣旨。

留石公園 とめいしこうえん
A 景観部門 12
所在地  飯野町大字大久保字高石山地内 他
 慶長三年(1598年)から貢文四年(1664年)までの六十年余にわたる米沢上杉藩の長い支配が終わって、信達両郡は幕府直轄領となり、貢文四年から代官支配となりました。
 寛文十一年(1671年)三月時の福島代官国領半兵衛内は、延宝二年(1674年)十月までかかって信達両郡の総検地を実施しました。
 その結果二郡の高十九万六千八百五十石余と決定し、以降明治までこの村高が基準となって年貢が賦課されていました。
 小手郷内村々の検地は、秋山村(川俣町)より開始され、大久保村の検地は久保山にあった大石のところで寛文十二年三月に終わったので、ここを「留石」と名付けたと育われています。
 小手郷組の御検地御手代は八名であったが、大窪村(大久保村)検地帳末には、次の通り記載されています。
 国領半兵衛内 前田平右衛門 上遠野金兵衛 石島庄太夫 山口権右衛門
 大窪村名主  蔵人 助之丞 利兵工
 各村高は次のとおリ
 飯野村 二九三七石一三三合
 大窪村 一八六二石五五三合
 青木村 一四八二石五一一合
 現在は公園化され、展望が素晴らしく、桜の季節には保育園や幼稚園の遠足など来園者も多くあり、花見客の中では最高の場所として近年賑わいのあるいこいの場となっています。
平成十六年十二月 飯野町教育委員会
42.ドンドン山の大石 
<発端> 

 「飯野町巨石探訪」には、採録されていません。飯野町発行のパンフレット「飯野町巨石探訪」で留石のある留石公園に行ったら、案内看板がありました。
 所在地:福島市飯野町大久保 留石公園 三角点237の南の尾根稜線直下。
 後で知りましたが、この石は、飯野町史、地質の項にある地質図に、コアストーンとして記載されていました。
 地質は、粗粒花崗閃緑岩(角閃石・黒雲母花崗閃緑岩):飯野町史による

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<到達ルート> 
 2.5万、5万地形図は川俣。
 まずは、留石公園の中央の273.2mの三角点・留石地点まで行きます。
 そこに、公園の案内地図看板と案内標があります。

 ドンドン山の大石へは徒歩100m。
 南の枝尾根の踏み跡を下り、尾根の肩の手前、右手。

 樹林の下にあり、三角点付近は勿論、枝尾根からも近づかないと見えませんので、案内板がないとまず気づかないでしょう。



 なお、三角点東方の稜線の肩部分には現在巨石は見られませんが、かっては存在していたらしいです。というのは、位置図に示したように、稜線の肩部分から転落してきたと思われる大きな岩塊が2つ、斜面直下の斜面下部と谷底低地の境に落下しているのが見えます。

 → 位置図に示した転落岩塊とマサの谷頭斜面。
 <巨岩の地形> 
 ↓ 左図 参照。
幅が4.2m、奥行きが3.3m、高さは山側から見て2.6m、谷側からは3.5mぐらいある、大きなコアストーン岩塊です。
岩相は、粗粒花崗閃緑岩(角閃石・黒雲母花崗閃緑岩)。風化はしているようだが外観は新鮮そうです。
稜線の平坦部分から急斜面に変わる遷急点付近にあり、石の向きは、S20°W向きで、谷側方向に5°ぐらい傾いています。

⇒ 右図 巨石の形を見るため展開図を作成しました。
図の細線のハッチで示した面は、破断・剥離面。
白抜きで示した面は、コアストーンの風化球面
 当初は、節理面にそって割れてできた立方体で、各稜が丸くなった形のコアストーンでしたが、谷側に面する部分が破断して欠け落ち、2/3ぐらいになっています。
 谷側の破断は、コアストーンにもともとあった局部的な節理割れ目と無理矢理破断した不定形破断割れ目とで割れています。
 破断転落した岩塊片は、下の急斜面を転落して行ってしまい、近傍には全く残っていません。
 

↑ 手前は南東側側面。右手に北東側・山側側面
山側側面には表層破断開口割れ目が入っている。
南東側側面に入っている線はアプライト脈

⇒  北西側側面
 岩塊下部は表層が細かく破断。
南西側・谷側側面
コアストン内の節理面に
沿って破断
奥行き方向が南西側側面、左右報告が南東側側面
コアストン内の節理面に沿った破断面
南東側側面の山側半分

入っている線はアプライト脈
   <歴史資料> 
なし。
41.モアイ石
モアイ石
前面に水平の節理割れ目が密な部分があり、
人面の眉と目のような凹凸になっている。
<発端> 
 飯野町発行のパンフレット「飯野町巨石探訪」で紹介されている石。留石のある留石公園にあり、案内看板があります。
 所在地:福島市飯野町大久保 留石公園 三角点273.2m北西方向の尾根稜線の肩、標高240m付近。
 後で知りましたが、この石は、飯野町史、地質の項にある地質図に、コアストーンとして記載されていました。
 地質は、粗粒花崗閃緑岩(角閃石・黒雲母花崗閃緑岩):飯野町史による


「飯野町巨石探訪」 飯野町刊  の記載============================================
モアイ石
イースター島の「モアイ」を想わせる飯野町の巨石を代表する石
巨大な岩の間に小さな祠が祀られています。

 人面岩と言っても不思議ではない、人の首から上の部分が、別の岩によりかかっている状態で存在しています。
 「これはまさにイースター島にあるモアイの石に似ている」と言うことから、昭和末期頃から「モアイ石」と呼ぶようになりました。以前は「大石」と呼んでいて、子どもたちの恰好の遊び場だったそうです。モアイ石の頭部にあたる部分には星座らしき穴が数ケ所あるのが確認できます。
 モアイ石のある山林は、大桂寺の所有となっていて、大桂寺が現在の場所(大久保字普門)に移る以前は、このモアイ石のある山裾にあったと言われています。
 また、モアイ石の近くには一段低い凹みがありますが、そこは大桂寺の和尚が修行をした場所と言われています。
 モアイ石からの眺めは素晴らしく、眼下には大久保の町並み、北に千貫森、西には吾妻連峰の山並みという眺望が広がります。春から秋にかけては周囲の自然林や草花、また野鳥や動物との出会いなど楽しさも倍増します。
・所在地:飯野町大字大久保字久保山
・寸 法:最大地上高3 m40cm
     最大露出幅2m80cm
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<到達ルート>
 留石の下に、公園の案内地図看板と案内標があります。そこからの道は整備されており明瞭、石の近くで、展望が開け、千貫森や安達太良山を望めます。
<立地>
モアイ石は、稜線沿いの断面でみますと、左図のように平らな稜線の肩にあたり、石より以下の稜線は、傾斜が急になる地点にあたります。
 この地点に、未風化の基盤が露出し、基盤の頂部は縦方向の節理面に沿って4つの岩塊(コアストーン)に分離し、それぞれの岩塊の頭は丸みを帯びた風化球面になっています。
 稜線沿いに上から見下ろしますと(右図)、稜線末端に露岩の低い高まりがあるだけですが、下から見上げますと、周囲を岸壁に囲まれた段となっています。
 この岩壁は、産状から、コアストーンや移動した岩塊でなく、基盤岩体の上部が露出している、いわゆる「根石」と思われます。つまり、この地点は、周辺の基盤が風化により深層までマサとなって「砂の山」と化しているなかで、ここだけ、未風化の基盤岩体が露出している場所と考えられます。


モアイ石 稜線上より、上から見下ろす
 なお、稜線を横断方向で見ますと、未風化の基盤岩体はかなり広いですが、すべてが突出しているのでなく、その一部だけが列状に残っていて、それ以外の未風化基盤部分は、上部がすべて転落して低くなってしまっています。

モアイ石 下から見上げる。
<巨岩の地形> 
 露出基盤岩体は、縦断方向に見るとA〜Dの4つの岩塊に分かれます。⇒下図。
 高さは3.5m程度で、さして大きな石ではありません。ただ、岩塊Aは(あるいはBも)、垂直方向に立っていた岩塊が、下部が下方に斜めに滑り落ち、上部が後ろに寄りかかる形でずり下がるという、「座屈」と呼ばれている動き方で滑動しているのが特徴です。その結果、断面が三角形で、下半部が広がる開口割れ目ができています。
 二本松市木幡の胎内くぐり岩(出向番号22)は、稜線の肩地形として似た形です。しかし、胎内くぐり岩の場合は、急傾斜した尾根の肩で、同じ滑動でも「転倒」型の動き方になり、オーバーハングした岩壁地形を作っています。
 モアイ石の場合のように、緩傾斜・平坦な尾根の肩地形では、座屈という別の形になるのは興味深いです。岩塊背後方向から押す力の大小によるものでしょう。
 
   全景に示すように、岩塊Aの下は、マサの地山で、岩塊Aより前方には、もともと基盤岩塊はなかったようです。
 また、岩塊Aには、前面に眉と目のようにみえる水平な突出と凹みがあり、モアイ石と呼ばれるわけですが、この凹凸を生じさせた水平方向の割れ目と、鉛直方向の割れ目が見られます。
 岩塊の移動を復元してみますと、図のP→Qに動いているようであり、この2方向の割れ目は破断割れ目ではなく、もともとの節理割れ目の可能性が高いです。 

 モアイ石全景
岩塊Aの下は、マサの地山で、岩塊Aより前方には、もともと基盤岩塊はなかったようである。

 岩塊A ⇒
 岩塊Aが、落ち込みながら、左に滑って行ったと考えられる。座屈の結果、下開きの三角形の開口ができている。
 岩塊Bと背後の岩塊Cとの関係は、Bが座屈しているようだが、Cとの間の開口部の形状は未確認。
 
岩塊A・B間の開口


岩塊BとC
 左側の岩塊Aの最下部が、座屈以前は、右の岩塊Bの水平な節理割れ目の高さにあったと思われます。
 岩塊Aが、落ち込みながら、左に滑って行ったと考えられます。座屈の結果、下開きの三角形の開口ができています。
 岩塊Bと背後の岩塊Cとの関係は、Bが座屈しているようですが、Cとの間の開口部の形状は未確認。
 <歴史資料> 
 説明看板があります。「探訪」の文章とほとんど変わらないので省略。
 「モアイ石」という名称は、観光化に際して付けられた名称のように感じましたが、以前「大石」と言われ、その後、地元民の間で変化していった名称とのこと。地物名の変化の例でしょう。
 なお、大桂寺の立地との関連伝承が記されており、そもそもはそれなりの信仰対象であったものと推測されます。
 「モアイ石の近くには一段低い凹みがありますが、そこは大桂寺の和尚が修行をした場所と言われています。」の場所については、未確認。
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40.高石 
高石
縦横10m近くあり、大きい
<発端> 
 飯野町発行のパンフレット「飯野町巨石探訪」で紹介されている石。留石のある留石公園にあり、案内看板があります。
 三角点273.2m西方向の尾根稜線の肩、標高240m付近。
 後で知りましたが、この石は、飯野町史、地質の項にある地質図に、コアストーンとして記載されていました。
 地質は、粗粒花崗閃緑岩(角閃石・黒雲母花崗閃緑岩):飯野町史によります。

「飯野町巨石探訪」 飯野町刊  の記載============================================
 高 石 
モアイ石留石と同エリアに存在する胎内くぐりもできる巨石

 大字大久保の字高石地内に巨石群があります。おそらくこの石名から字名が付いたと思われます。大きな岩が6個あり、その他にも目だない岩が地表にのぞいています。その中でも特に巨大な岩は見る人を圧倒します。
 巨石の中腹に棚のような平面があり、そこには稲荷神社が鎮座し、久能家の氏神として祀られています。
 巨石が集積していることから、ここではさまざまなめずらしい岩を見ることができます。たとえば、胎内くぐりができる巨石や樹木が生えている平面状の岩、割れ目から孟宗竹が伸びている巨大岩など…。
 また周囲一帯は杉古木や竹林に被われていて、何とも言えない雰囲気があり、癒しの空間とも言える場所です。
稲荷神社のお仕えである狐はもちろん、狸、リスなど野生の動物や小鳥に出合う機会もあります。

高 石
・所在地:飯野町大字大久保字高石
・寸 法:最大地上高2m  最大露出幅5m
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  ・・・・(筆者注)寸法については過少。大石は大きく2つに分離した岩塊ですが、見上げるように大きく、まさに誰でも感嘆する巨石です。一方の本体だけで地上高10m、露出幅10mはあると目測。
<到達ルート>
 2.5万、5万地形図は川俣。まずは、留石公園の中央、273.2mの三角点・留石地点まで行きます。車でいけます。ただし、狭く、急、未舗装ですので、条件の悪いときは乗り付けるのは、無理でしょう。
 留石の下に、公園の案内地図看板と高石への案内標があります。案内地図には、他の3つの巨石(ドンドン山の大石・モアイ石・行灯石)の位置もあります。
 道は整備されており明瞭、地図(上の図参照)のルートで簡単に行けます。
 大石の近くは踏み跡が、分かれていて不明瞭だが、石の下には簡単に行ける。高石集落の方から上るルートは未確認。
<立地>
 高石の地点では、西向き主稜線の稜線緩斜面上から遷急線の下の南側急斜面上部にかけて、大小のコアストーンが林立しています。
 その最大のものが、急斜面に聳えている10mを越えると思われる大石です。これが「高石」の元になった巨石でしょう。もの凄く大きくて、直立しています。
 この石本体は、いわゆる根石であるのは確実で、この巨石群は、未風化基盤岩体の頂部が稜線末端とその急斜面に露出しているものでしょう。

稜線平坦面にあるコアストーン 北側から

同 南側から。 コアストーン立石。周囲は破断している。

南斜面上部にある巨石群 倒れて、破断しているものが多い。

同。 斜面の下部に、立っているのが高石の頂部。

南向きの急斜面上に突出した立石の頂上部。東側(画面左手)は開口割れ目で割れて、ずり落ちている
<巨岩の地形> 
 南向きの急斜面に突出している、縦横10mを越える巨岩で直立しています。
 元々の形は、縦方向の節理面に沿って風化形成された直方体(谷側方向が長辺)で、頂部が、谷側方向に斜めになった片屋根状の岩塊です。岩塊表面は平滑な丸みのある風化球面になっています。
 
 この岩塊が、南向きの急斜面上に露出して、現在、重力破断しつつある状態と考えられます。
 地中にあったコアストーンや未風化基盤が地表に露出した後、重力破断していく最初期の形を示す好例と考えられます。


 岩塊の南側中部は、垂直の破断面で割れ落ち、高石の下方には、破断した破片岩塊が落ちています。
 また、南側下部は、垂直の破断面が入り、3つの滑動ブロックに分かれて、下方に動いています。

 岩塊の東方に支谷があり、その方向に岩塊の東側が垂直の開口割れ目で破断して、分離しています。

岩塊東側の開口割れ目と分離岩塊

高石下方に転落した破断岩塊片
いわゆる舟石型の形をしている。

 岩塊西側面にも垂直な破断割れ目があります。この割れ目は南東から北西向きで、岩塊内部では、割れかけの状態ですが、岩塊が分離しかけているのがわかります。


西側面の上部

西側面の下部
 <歴史資料> 
未調査。看板等無し
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(以上)
39.福島市飯野町飯野 藤加羅(ふじから)神社立つ石 出向記録 2013年6月訪 
左が神社の本殿。神社の奥に巨石が神体石となっている。
石の頂上は、風化球面で不定形。
石の形は、縦方向の節理面で割れている。 
<発端> 
花崗岩の巨石地形事例を集めるため、福島県の阿武隈花崗岩露出地を廻っている。
6月に、巨石の位置情報がパンフで紹介されている福島市飯野町(旧飯野町)を歩いた。

 飯野町発行のパンフレット「飯野町巨石探訪」に、先年の宮城県沖地震により巨石の一部が倒れたとの記載があるので、訪ねた。
 名称: 藤加羅立ち石
 所在地:福島市飯野町飯野字中井戸 藤加羅(ふじから)神社。藤加羅神社の神体石である。
 後で知ったが、この石は、飯野町史の地質の項の地質図に、根石のコアストーンとして記載されていた。
 地質は、粗粒花崗閃緑岩(角閃石・黒雲母花崗閃緑岩):飯野町史による
 谷底低地の中央にあるという特異な立地をしている石。当然根石である。
 岩の形は、節理割れ目に沿って割れており、破断割れ目がほとんどないのも特徴。
 宮城県沖地震により、節理に沿って割れて立っていた岩塊が将棋倒しになったらしい。

「飯野町巨石探訪」 飯野町刊 の記載
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藤加羅立ち石

 藤加羅神社は飯野中学校の裏、県道をはさんで北側にあります。
杉の古木の中に鎮座し、社殿は東の方角に向けて建てられていますが、これは、この地に弁天様が立ち寄った際に腰を掛けて休んだ所と言われ、そのため弁天様(隠津島神社・東和町)の見える方角に向けて神社を建てたと言われます。
お祭りは現在大宮神社(飯野地区)の祭礼(10月下旬)に合わせて行っています。
 藤加羅神社の本尊は「蛇」と言われており、蛇は繭を鼠の被害から守ってくれると言うことから、藤加羅神社のお札を受けに、立子山(福島市)や秋山(川俣町)などから養蚕農家の人々が多く参拝に訪れたそうです。
 藤加羅神社の境内、神殿の裏側には、巨大マグロのとろを刺身に切ったような形の巨石があります。見るからに刺身包丁で切り始めたと言った雰囲気があります。以前、宮城沖地震で倒れたそのままの姿で現在に至っています。
 藤加羅神社
 ・所在地:飯野町大字飯野字中井戸
 ・寸 法:最大地上高4 m50cm
     最大露出幅5 m40cm
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<到達ルート> 

位置は地図に示す神社の境内。
車で、神社の裏に簡単にいける。
2.5万,5万地形図は川俣。
地図では、地名は「藤柄」
地図の対岸の工場は、現在、避難してきた福島県飯舘村の中学校となっている。
 近傍のバス停名も「藤柄」












 <立地> 
 谷底平野の中に島状にある。特異な地形である。
谷津田の合流部の中央に島状にある。埋積平野なら埋め残された山の頂上が島状に残る地形は一般に見られるが、侵食平野では、普通、侵食されて残らないものなので、あまりない形であり、特別な理由のある形である。

東側から見る。谷底平野の中で島状。

北側から見る。同じく島状。
車はベリーサ。意外と燃費が良い。女性向きと言うが、静かで疲れないので年寄り向き。実際、熟年というか老年の爺様が乗ってることが多い。
自然の状態では、島になっていたのか?、それとも岬になっていたのか?
現在は、周辺の地形人工改変が進んで、一見では分からなくなっている。
 
<当初地形の復元>
改変前の地図を探して、昭和60年(1985年)の飯野町1万分の1地形図(下図)を見ました。水田(谷底低地)を彩色。それを元に、当初の地形を推定してみました。
右図が概念平面図と断面図。
当時は、神社東側が岬状に続いていて、その先端に巨石が立っていたのであろう。岬はその基部がのちに掘り込まれて水田化され、残りが堤状に残されて参道となり、神社境内が巨石とともに島状に残されたものと思う。
 巨石のところで谷幅が狭くなり、谷幅異常となっていたわけだが、阿武隈山地の侵食力のない谷では、かなりありふれた現象のようである。
 浅い谷の中央にポツンと立つ巨石は、目立つランドマークで、伝承で弁天様(元々は、ダイダラ坊のような巨人ではと思う)が腰掛けた石というのもうなずける。


<根石かどうか>
 この巨石は、根のないコアストーンか、根石の未風化基盤の峰であるかは、巨石といってもあまり大きな石ではないので、どちらもあり得ると思う。
 しかし、島の各所に岩塊が散在していて、巨岩の表面も風化球面があまり見られず、頂上も不定形をしているので、根石の基盤の峰の可能性が強い。



<巨岩の地形> 
 岩塊位置図に示すように、神社裏の神体石に当たる岩より、分離した岩塊が3片見られ、いずれも、節理面で分離した直方体の形である。

巨岩の岩質は、粗粒花崗閃緑岩。露岩は未風化で、がっちりしていた



本体の北側岩塊。本体の半分が分離・転倒した岩塊

本体の南側分離岩塊と本体上部の分離岩片。
 2つの直方体の岩塊が分離転落しており、手前側の岩塊上に、本体上部の節理に沿って平行に板状に割れた岩片が倒れかかっている。
 この2枚の岩片が宮城県沖地震で倒れて将棋倒しになったらしい。
   <歴史資料>

(以上)
38.二本松市鈴石町 鈴石 出向記録 2013年6月訪 
鈴石 視覚的に形は良いが、小さくてやや迫力に欠けるかな
花崗岩の巨石地形事例を集めるため、福島県の阿武隈花崗岩露出地を廻っています。
6月に、巨石が多い二本松市内を集中して歩きました。
<発端>
 
  この地方の巨石の事例は、インターネット上のyo-hamada氏のブログ「巨石!私の東北巨石番付」 (http://hamadas.exblog.jp/ 20130522現在) から所在情報を得ています。
 この鈴石もその一つです。
 yo-hamada氏のブログでみますと、地名「鈴石町」の元になり、神社の名前にもなっている巨石とのことです。あまり大きな石ではありませんが、典型的なコアストーンのようですので、興味を持って訪れてみました。
 
 稜線の肩に立地し、コアストーンの形をよく残し、破断面が1つ入って2つに割れているだけとまとめられます。 稜線平坦面上に立地する、小型のコアストーンとして、立地と形が典型的な例です。

<到達ルート> 
右の位置図は、国土地理院2.5万地形図「岩代本宮」より作成。

中央の神社が、鈴石神社。赤丸が鈴石の位置です。

 二本松市鈴石町にあり、鈴石地区中央にある鈴石神社の裏手にあり、神社とは別の尾根上にあります。



 地質図では、阿武隈花崗岩の粗粒花崗閃緑岩(角閃石・黒雲母花崗閃緑岩)にあたります。
 阿武隈花崗岩はすっかり風化し未固結のマサ化していて、マサ中に未風化のコアストーンが散在している岩相で、二本松丘陵とよばれる、低い・緩やかな山地となっています。

 <立地>
 未固結な粗粒砂中に未風化の堅硬なコアストーンが散在する岩相の岩石が、侵食を受けている山地ですので、コアストーンが侵食に対する抵抗点になり、山頂や稜線末端の肩に露出しています。
 鈴石も平坦な稜線の末端の肩部分にあります。

 尾根の微地形でいいますと、尾根斜面でなく、尾根稜線部分の平坦面上にあります。
 平坦面上のコアストーンは、コアの大小で破断状況に違いがあり、コアが小型の場合は完全露出して、破断が少ないのが特徴です。
 鈴石は、この特徴に合っています。

 鈴石の場合、少し地中にあり、下は完全には見えないのですが、石のある位置から下の急斜面には露岩が一切見られませんので、鈴石は、おそらく根無しのコアストーン、いわゆる「根無し石」と思われます。

鈴石付近から二本松丘陵の山と谷を望む

鈴石と稜線の肩

尾根上方から見た鈴石
<コアストーンの微地形> 
 下図は、北側から見た鈴石とそのスケッチです。
 肌色彩色部分は、コアストーンの風化球面。白抜き部分が破断面。


鈴石の表面。一応がっちりはしていますが、風化が進みもろくなってきています。粒子がぽろぽろ崩れるところもあります。



スケッチに示したように、コアストーンの丸みのある外形は残していますが、風化が進み肌ががさがさで、表層の平行風化により、部分的に層状の剥離割れ目ができ、亀甲状の割れ目が入っていて、石の右下部分のように一部は剥離しています。
 また、縦方向の上に開く開口割れ目で、真っ二つに破断しています。割れ目は曲面で、節理面が開口したのでなく、重力による破断割れ目です。
 根無し石の場合、このような縦方向の破断開口割れ目がよくできます。
 割れ目の入り方は、底面の傾斜方向に対応していることが多いのですが、鈴石の場合も、割れ目の方向と石が載っている稜線平坦面の方向が対応している用に見えます。
しかし、緩傾斜ですので、あまりはっきりしません。⇒詳しい図を作らないと確言できません。


北側から、割れ目と平行な方向で見た画像。

 割れ目が節理面でないことが分かります。
 右側(尾根の上側)が、開口し右方向に逆傾斜しているのが分かります。

南側を側方から見ます。

北側からの画像と合わせ、縦割れ目で、岩塊が2つに分離していますが、南側方向(斜面方向)には滑っていないことが分かります。
画像手前側(尾根の上方側)が逆傾斜


西側





 <コアストーンの形の見方>形のモデル
1.コアストーンの外形、平面形と尾根の方向
   長方形で長辺が尾根方向?

2.コアストーンの外形、断面形と尾根・斜面の形
   風化帯の関係から旧地表面と平行になるのでは?

3.破断形、
 表層風化による剥離殻状割れ目・亀甲状・網タイツ様の割れ目模様

4.破断形、
 重力破壊による縦方向・斜め方向の開口割れ目:曲面、平行に何層も入る、コアの大小により入り方が変化? 平坦面の場合と斜面の場合。 中央では縦、周辺では斜め。中央下部に内核状。

   <歴史資料>

 鈴石には、看板等なし。

 鈴石神社
鈴石と同じように稜線先端の肩位置にあります。
この立地から露岩があるのではと思いましたが、行ってみると境内には全く露岩なく、すべてマサで、マサの金色粒がキラキラ輝いていました。 →露岩がなくても、尾根は立つ!

 鈴石神社由緒看板
編年体の由緒書。伝承は省かれていますので、鈴石については何も書かれていません。
(以上)
33.本宮市和田 蛇舐石(じゃねぶりいし) 2013年5月訪  
 ポインターを画面上に置いて下さい。タフォニ部分を拡大。
<発端> 

 花崗岩の巨石地形事例を集めるため、福島県の阿武隈花崗岩露出地を廻っています。5月に、岩角山などがある本宮市と二本松市を歩きました。
蛇舐石は、巨石群で有名な岩角山入口にある石ですが、岩角山とは離れていて、地形の成因も異なるので別途紹介します。

 この岩は、本宮市和田にあり、巨石で有名な岩角山への入口交差点角にあります。
 花崗閃緑岩の風化したマサからなる丘陵の尾根先端に、未風化の花崗閃緑岩岩体が岩塊群となって露出しています。
 この露岩の内、一つの岩が、タフォニと呼ばれる表面風化形を示していて、その形に注目して「蛇舐石」とよばれています。 ⇒図参照

 タフォニは花崗岩の風化微細地形としてよく紹介されている形状です。 しかし、今まで、福島県の阿武隈花崗岩、山梨県の甲府花崗岩、栃木県名草の花崗岩などの巨石地形と見てまわってきたが、タフォニは、この石以外、まずみられません。
 タフォニの希少性から、さほど大きくもないこの石が特殊視されたのでしょう。 
 用語:タフォニ
地中海のコルシカ島での名前を元にした微細地形用語。花崗岩類のような結晶質の岩石の露岩表面に生じる、風化作用によって岩石内部の物質が除去されて生じた小規模の穴状の凹み地形。
 転じて、,乾燥・半乾燥地域や湿潤気候地域の日射の強い海岸露岩など観察される穴状微細地形をいう。湿潤気候地域の内陸部でも、露岩の崖や山頂部などで見られることがある。日本では、砂質岩や凝灰岩などに見られ、花崗岩にはほとんど見られない。
 乾湿変化や温度変化、塩類風化などによる岩石の粒子化と、風や波等の除去作用により、穴の形成と発達がおこり、丸みを帯びた、溶けたような特有の形状の穴が成長すると考えられている。
 日本のタフォニ画像の例 http://www.jsce.or.jp/committee/jiban/slope/100330/3-11nishiyama.pdf
 <蛇舐石の読み方 じゃわぶりいし、じゃなめいし、じゃねぶりいし ? か> 

石の名前は、字では、蛇舐石 別名 蛇冠石(じゃかんむりいし)ですが、蛇舐石の読みは出典により、さまざまです。
 じゃわぶりいし: 石の前の看板・東北巨石番付・・看板文面は、確かにこう読めるのだが、かすれて消えかけているので、「ね」が「わ」にみえるのかもしれない。(^o^)
 じゃなめいし:岩角山HP:今風に読めばこうだが、昔風でないなあ・・・。
 じゃねぶりいし:白沢村史各論編U自然・地名・人物 村史の記述(後述)文中に、読みとしてルビが振られています。

ここは、いかにも古語風な読みであるし、なんといっても村の方々のチェックを受けていると思われる村史の記述をとって、「じゃねぶりいし」と呼ぶことにします。


 <記述の色々 それらをまとめると・・・> ・・・縦書きを横書き、漢数字、振り仮名などを変えてあります。

  <蛇舐石前の看板 銘文> 

 岩角山蛇舐石の由来
承久年代(西・1219年)の頃この地に宗基と云う郷司が居り妻女を亡くしてからは日夜酒食に耽けり里人に過重なる年貢を課し、かつは里の婦女子を我がものとした乱業は目にあまるものがあった。
宗基のために衣食に事欠き、身を滅し世を去って行った里人や里娘が日と共に増していった
この人達の怨霊が蛇となって郷司宗基を亡ぼさんと館の岩に群り石を舐、岩を掘したと伝えられております。
またこの岩に群る蛇が白蛇でありその様が冠の様にも見えたと云うので蛇冠石とも呼ばれ
ております

 (感想)⇒タフォニの凹みを、蛇が舐めて岩を崩すと解釈し、また、凹み残った凸部は細長くて白蛇のようですから、メヂューサ風に蛇冠というのも分かりますね。

 <岩角山岩角寺のHP 蛇舐石(じゃなめいし)/蛇舐石観音 の項>
  http://www.iwatsunosan.jp/sanpaipoint1.html 2013年6月9日現在

 承久年代、この地に「宗基」という郷士がおりました。宗基は妻女を亡くしてから、日夜酒食に耽り、里人に過重な年貢を課し、里の婦女子を我がものとしたりと目に余る乱行を行うようになりました。
 そのために衣食に欠き身を滅ぼした多くの里人や娘達の怨霊が、執念の蛇となって宗基を殺そうと、宗基の館の岩に群がり石を舐め、岩を崩したと伝えられています。
 岩に群がる蛇は全て白蛇であり、群がった姿が冠のようにも見えたので「蛇冠石(じゃかんむりいし)」とも呼ばれています。
 岩上の観音像は昭和52年2月、岩角寺第36世住職 俊董僧正の発願により、仙台市の宮城交通株式会社社長 千葉三二郎翁から寄進され、白蛇観音として往時の、無縁の霊を慰めるべく建立されました。

 (感想)⇒石のよみかたが違うが、内容は同じ。宗基は、郷司から郷士へ。
     新情報:岩の上の観音様の由来が述べられています。


 <白沢村史各論編U 自然・地名・人物 第2章 白沢村の地名 p75 1989年刊 の記述>

 字東屋口 地名 蛇冠(じゃかぶり)の項
近世(天保二年)蛇冠に屋敷三軒とあるが、明治期字東屋口に併合されたが、俗称では現在も残っておりその由来は、岩角山参道入りロの道路沿いに大蛇が舐めたような大岩があり、蛇砥石(じゃねぶりいし)といった。
伝説によると、昔、和田宗基という地頭がいた。宗基は妻に先立たれ、日夜酒食乱業にふけり里人に過重な年貢を強要し、果ては里の婦女子も我が物にするなど、その乱行は目に余るものがあった。このため、暮らしに事欠き身を滅ぼした里人や里の娘たちが日とともに多くなった。世を去った里人たちの怨霊が白蛇となって、宗基を滅ぼさんと館の岩に群がり、岩を砥め石を崩したと伝えられる。
群がる白蛇が冠のようになって見えたというので蛇冠石(じゃかんむりいし)とも呼ばれる(岩上には宮城交通社長千葉三二郎翁の寄進による白蛇観音がまつられている)。
道路拡幅のため一部切り取られたが、蛇に舐め取られた岩石の一部は残っている。
この宗基に、玉絹という美しい一人の娘があった。父の悪行をやめるように幾度も頼み願ったが父は一向に改めなかった。
玉絹はひそかに館を抜け出して貧しい里人たちに衣類や金品を施したり里女たちの機織りを手伝って少しでも父の罪の償いをしようと心がけた。
また岩角の修験僧と力を合わせ養蚕を教え、絹糸をたぐり草木の汁を染料とした模様の織物を作り販売することを教えた。これがこの地方に養蚕が広まった基であるという。

(感想)⇒新情報
 ・地名:蛇冠(じゃかぶり)と石の名前:蛇冠(じゃかんむり)石では、同じ字でも読みが違うのですね。
地名の方が公式な名称で、改変されにくいと考えられるので、「じゃかぶり」の方が古名なのかも。
 ・同じ理屈で、蛇冠石は、地名の元になっている名称なので、「蛇冠石」の方が「蛇舐石」より本来の名称だったのではないでしょうか。
(つっこみ)⇒
 ・宗基は、和田宗基という地頭ということですね。和田の地名は、和田氏にちなむものだそうだから、その一族ということか。 なお、もとから悪逆無道なのでなく、奥さんを亡くしてからということなので、人間的興味も感じます。
 ・聖女と聖者として、娘の玉絹と岩角寺の修験僧が登場。この地域の養蚕・機織り産業と特産品草木染めの伝搬・発祥に関する岩でもあるらしい。


 <岩角山の玉絹物語の看板 銘文>

 1‐F 玉絹(たまぎぬ)物語
 今から700年ほど昔、正覚という若い僧が岩角山(いわづのさん)に草庵を結び、里人に信仰を説き養蚕と機織りを教えて貧しい人々に生きる喜びを伝え救済に努めておりました。
 当時の地頭、和田宗基は妻に先立たれた後、酒池肉林にふけり重税を課しましたので、貧困の中に亡くなった人たちの怨霊は白蛇となり館の岩に群がって崩してしまいました。これが蛇舐石(へびなめいし)です。
 宗基の娘、玉絹は、密かに貧しい里人に金品を施し、機織りを手伝い父の罪を償っておりました。その玉絹に正覚は心ひかれ、ふたりに愛が芽生えました。また、玉絹の教えた草木染めの織物はすばらしく暮らしは次第に楽になっていきました。
 しかし、宗基が更に重税を課したので、正覚は税の軽減を訴えましたが、悪僧として死刑を宣告されてしまいました。その夜、玉絹は正覚を救うために牢を開きましたが、正覚は、「私ひとりの死で里人を救えるなら。」と断り、「恋しくば 南無阿弥陀仏と 唱うべし 我も六字の中にこそあれ」と書き残し刑場の露と消えました。玉絹もまた池に身を沈めてしまいました。 さすがの宗基も目が覚めたと伝えられています。
 この物語は「あだち野のむかし物語」1‐Fに掲載されています。
    安達地方新しい旅実行委員会
    お問い合わせ電話0243-22-1101(自治センター内)

 (感想)⇒
新情報:修験僧は正覚という名で、正覚は殉教。玉絹は、投身。宗基も、後悔改心する。
 物語として脚色された話ということで読むとしても、聖僧が殉教し、聖女・娘が身を投げて、悪逆無道の領主・親が改心するという話になり、仏教説話として完結ですね。
 そこに、地名・奇石伝承と産業発祥伝承が関連づけられているようです。 この伝承の元になった、説話があるのでないでしょうか
(つっこみ)⇒
 天台宗系修験僧が、真宗門徒のように、六字名号で殉教というのは、不自然と思います。それに、1200年代(承久年間)では、蓮如上人以前だし、真宗がないか (^_^;)
 
  <立地> 


この岩は、本宮市和田にあり、巨石で有名な岩角山への入口交差点角にある。
周辺は、なだらかな低い緩やかな山地です。

蛇舐石の対岸を眺めたところ。
緩やかな山とそれに入る短い緩やかな支流の谷。
手前の川は少し行くと谷中分水界で別の水系に変わる、つまり、現在の川が形成した谷の地形でなく、過去の地形が引き継がれている化石の谷。
 後述しますが、蛇舐石とその背後の地点で、地下の未風化の花崗岩体が長さ30m、高さ7〜8mぐらいのフタコブ駱駝の背のような高まりをつくっていて、蛇舐石はその西端の表面岩塊です。
 この高まりには、マサの尾根がつながっていて、岩角山へと続いています(地図の緑線、画像の稜線)。
 川が山を掘って尾根を作っていく過程で、蛇舐石の基盤高まりが不動点になって、それに続くマサの部分が保護され、尾根となった地形と言えます。 見かけ上巨岩が尾根の末端にあるが、実は、巨岩から尾根が始まっているといえる地形です。
 このような、尾根の末端部に立地する巨石の例は非常に多い。           右端、スケール代わりの車は、新車のベリーサ。
 <コメント:巨石の立地、地形、地下の未風化岩塊との関係> 

 この地域では、山も谷も、阿武隈花崗岩が基盤となっていますが、新鮮な部分はほとんど無く、谷底より上は風化して大部分がマサになっています。 ところどころの採取場で山の断面を見ると、文字通り、山の根元まで腐っているというかマサ化していて、所々に風化し残ったコアストーンが散在している砂の山と化しています。しかし、全面的にすべてマサ化しているというわけでもなく、局部的に風化してない新鮮な基盤の花崗岩岩体が地下から高まって地表に露出している所もあります。
 つまり、ほとんど未固結の砂だが、たまに、巨大なコアストーンがあったり、未風化の基盤岩体があったりし、そこはもの凄く硬い部分があるという物性の地盤になっているわけです。その地盤が侵食されていく過程で、巨大コアストーンや未風化基盤の高まりが、地形としては、残丘、峰頂部、稜線の肩部分、尾根の末端部などになり、そこに巨石が見られることが多いようです。
 特に、尾根の末端部にある巨石が多いのは、里に近いからだけでなく、山頂や稜線にある岩より、侵食により露出しやすいせいでもあるでしょう。
 <岩塊の様子>

(1) 尾根側のコブをなす基盤岩体の様子

 (左画像) 基盤岩体起源岩塊とその転落岩塊が斜面に露出している。・・・・・一瞥のみ。後日機会があったら詳細調査。

 (右画像) 露出している岩石の地肌。 岩種は、花崗閃緑岩ということです。見たところ未風化でがっちりしています。
       指はスケール。爪の幅が8mm。
(2) 蛇舐石側のコブをなす基盤岩体の壊れ方

  (左画像)
 2つのコブの鞍部の切り通し道より、蛇舐石の裏面を見る。このコブが、コアストーンでなく、未風化基盤岩体の高まりであることが分かります。 面上部の木の生えている岩塊が蛇舐石。
 シャープな割れ目が入っていて、岩体は岩塊に分離しています。この割れ目は平面的でなく曲面の割れ目ですので、基盤本体に本来はいっている節理割れ目でなく、岩体が露出したことによる後成的な破断割れ目と判断します。
 この割れ目に上部から木の根が入っていて左上部の岩塊は木の根開口で押しのけられています。

  (右画像)
 反対側から見る。画像左側の割れは、上の画像の右の割れ目の続き。岩体の表面に沿った曲面の破断割れ目であることが分かります。
画像右側の岩体末端では、岩体がより細かく破断されていて小さい岩塊に分かれています。
さらに、岩体上部には木が生えていて、木の根が割れ目に入り込み、木の根開口作用を及ぼしています。
(以上)
28.福島県二本松市舟石 舟石 2013年5月 

舟石
長軸側を見る。長軸長さ9.6m。 手前側も右手が人工カットされているが、
裏側は完全にカットされ、大きさが半分になっている。
推定復元すると、長軸9.6×奥行き7.2×地上高1.8mの大きな平べったい岩である。
<発端> 
 花崗岩の巨石地形事例を集めるため、福島県の阿武隈花崗岩露出地を廻っています。
 この地方の巨石の事例は、インターネット上のyo-hamada氏のブログ「巨石!私の東北巨石番付」 (http://hamadas.exblog.jp/ 20130522現在) から所在情報を得ています。

 この舟石もその一つ。
 地名の元になっている巨石とのことですが、信仰対象ではないようです。
 yo-hamada氏のブログでみると、平べったくて球形でなく、長軸が10m近くあり、異形の、異常に大きな岩塊です。
 単なるコアストーンではなさそうだし、大きな破片が滑動しているのだろうか、等々、興味を持って訪れてみました。

 <位置と交通> 
 二本松市舟石にあり、阿武隈川西岸の平野と山地の境にあります。石の傍らの道路は交通量が多い。

 二本松丘陵とよばれる、阿武隈花崗岩のマサからなる低い山地と、阿武隈川の沖積平野との境にある。
 緩傾斜の斜面末端にあり、この斜面は、厳密には、比高10mぐらいの河岸段丘の段丘崖斜面にあたる。

 岩のある所は、
(1)段丘崖の最下部である、
(2)平面的には沖積平野に張り出した岬状地形の先端にある。
 という立地の特殊点です。

 この岩と立地が類似する、平野への突出地形が近くに2ヶ所ある。
 地形図に赤丸で示した図の南東と南西画の神社となっている地点で、同じような平たい巨岩が存在するのではと想像される。  車は、ベリーサ。
<岩塊の形>

 一言では言えない、複雑な形をしているので、平面図側面図に分けて展開図を作成しました。
 私は絵が下手なので、各面からの画像で補って下さい。

 (1) 岩塊の西側半分は採石されて垂直の切り口のみが残っています。
 北側も、カットされている・・・採石のためではなさそう。
 図のピンクに彩色部分。
 本来の岩塊を復元想像してみると、南北方向9.6m、東西方向7.2m、地上高1.8mの大岩塊で、 上面は波打っています。

 形から見ると、コアから破断した岩片に見えるが、巨大すぎますかね。 表面はすべて丸みを帯びた風化球面で、重力破断面はありません。

 中央に東西に開口していない節理面が1つ全体をを廻っています(図参照)。  こんな大きな岩塊が、地表に露出していて重力破断しないのは不思議。動いていないせいでしょうか。

 (2) 地下に根が生えているのか、地表に乗っていて浅く埋まっているだけなのか? は、なんともいえません。
 巨大で、中央の節理で開口してないことなどは、生成後動いていない、根石である説に有利だが、
 長軸を斜面傾斜方向と直交、岩塊の上面の傾きが斜面末端傾斜と平行しているなどは、岩塊が一体となって動いてきた説に有利。

 ・・・・・なお、斜面と岩塊の形だけ見ると土石流で流れてきた礫のように見えるのだが、立地から見てありえない。
 

東側側面
背後の緩斜面が見える。こちら側の岩塊表面は風化球面

南側側面
斜面の末端にあること、岩塊が埋まっている事が分かる。
岩塊上面が斜面末端と平行なのが気になる。

西側側面

人工カットされた垂直面

⇒北側側面

西側側面の人工カット面がよく分かる。
画像手前の北側側面も人工カットされている。
<まとめ>

成因その1
 
中央にある節理面で全然割れてないので、この岩塊は動いていないと考える。花崗岩のマサの中で、風化され残った基盤花崗岩の部分と解釈する。
 すると、この岩が侵食に対する不動点となって平野に突き出した岬状の地形の先端部となっていると考えられる。
 形が平たくて塔形にならないのは、露岩になると速やかに除去されてしまうのであろう。 ・・・・と考えるのが、第1案。

 しかし
成因その2 
  (1) 段丘面下にあった基盤の未風化部分が、段丘崖の侵食により地表に現れ、立石となっていた。この時にほぼ板状の形になる。
  (2) 立石が倒れ、霜の作用で滑動。斜面をスライドし、末端で突き当たって止まる。地表に出て居る表面は風化で丸くなる。
  (3) 岩塊山側部分は麓屑面形成で半分埋没。
 ・・・・・こちらの方が、むりがないかなあ。 わかりません。(^_^;) 

新車(ベリーサ)と大きさ較べ

⇒舟石の手前の溝は、用水路
22.福島県二本松市木幡 胎内くぐり岩 2013年5月  
胎内くぐり岩
チョックストーンが天井になった
岩塊の裂け目
幅30cmぐらい。
高さも低く成人が通るにはやや苦しそう。

 花崗岩の巨石地形事例を集めるため、福島県の阿武隈花崗岩露出地を廻っている。
 5月に、岩角山などがある本宮市と二本松市を歩いた。

 巨石の事例は、インターネット上のyo-hamada氏のブログ「巨石!私の東北巨石番付」から所在情報を得た。
 ⇒ http://hamadas.exblog.jp/  20130522現在

 <発端> 
 この岩は、二本松市木幡(こはた)木幡山山中にあり、阿武隈山地の小起伏面上に聳える残丘山腹が岩壁となっているものらしい。岩壁の一部が開口した隙間になり、上からチョックストーンの岩塊が落ち込んでいるという

  この裂け目が、「胎内くぐり」として、地元羽山神社の神事(出羽三山風の通過儀礼)に使われているとのこと。

 残丘である木幡山の地質は、阿武隈花崗岩中の閃緑岩岩体であるらしい。

 この残丘の主稜線から西に出る小尾根の中途の肩にある岩壁。
 高さ5m程の幅広の節理面に、西国三十三番札所写し霊場として、二十二番正聖観音像が線刻されている。

 西国三十三番写しは、上川崎の七石山にも、本宮市和田の岩角山にもあった。この地域で広く見られる信仰形態か。板東や秩父は?

 千葉県だと石仏浮き彫りの塔をたてるが、こちらは自然の立石に線刻で、急傾斜な移動困難な所にあり、参詣はきつい。女人も参詣していたのだろうか?

 
<到達ルート> 
 位置は地図に示すとおり。
 登り道の入口は林道脇にある⇒画像参照。看板が立っていなければ、とても昔からの道とは思えない冴えない踏み跡。
 そこから急登90m、20分。踏み跡自体は、明瞭。


     胎内くぐり岩への入口


 看板によれば、隠津島神社の木幡幡祭り(はたまつり・国の重要無形民俗文化財)の際に、行われる羽山神社の籠もり神事で、胎内くぐりをした後、棒立よばり・背拝みの神事をするとのこと。

 大切な信仰設備になっているわけである。 車はまだ新車のベリーサ。
 <立地> 

 結構大汗かいて、岩壁の下に辿り着いた。

 地図の尾根を、稜線通しで見ると、右の図のように遷急点になっている所である。

 急傾斜小尾根の下端が,岩壁になっていて、今まで上ってきた稜線は露岩がなく、花崗岩類の風化土であるマサ(真砂)であるが、ここだけ露岩が出ている。

 山全体が風化してマサ化しているなかで、ここだけ、風化しない基盤岩体が露出している場所と考えられる。

 この岩壁の石は、コアストーンや移動した岩塊でなく、基盤岩体の上部が露出していて、基本的には動いていないということになる。
 <岩壁の微地形> 
岩壁の西面を尾根の方向(東南東)に沿って見た正面図と、尾根の側面方向(北北東)からの側面図(南面)を示す。
   
 露出岩体は、節理面や破断面でブロックに分かれていたり、単独の岩塊に分離したりしているので、大きなものを、A〜D X〜Zと名付けた。

 節理面の作る微地形
 正面側面共に、縦方向の節理に沿って崩落し残りの面である節理面(ピンクに彩色)が、岩体の大部分で、地形破断の開口割れ目は見られない。

 現在私が廻っている低山山頂部の花崗岩類露岩では、球状岩やそれがさらに破断した形がよく見られる。

例:同じ阿武隈花崗岩の岩角山:本宮市など。

 同じ花崗岩体の露出場ではあるが、これらの微地形の違いにはそれぞれの場所の侵食速度の大小が関係してくるのであろう。

  側面図と類似した方向からの画像:尾根の南面 Aの脚下とDの頂上との比高が、約8m。
スケッチ図は正投影による作図なので、カメラの一点投影の画像とは見え方が異なる。
なお、尾根の反対側の北面の状態は、見ていないので不詳。

 岸壁の比高は、総高8mほどで、急傾斜の斜面に面した部分で、基盤岩体に元々ある縦方向の割れ目:節理割れ目に沿って崩壊し、新鮮な岩壁になっている。

 一番大きな面、Aの南西面に、観音像が彫られている。

 なお、崩落した岩塊は転落してずっと下方に移動してしまうらしく、付近には見えない。

 岩体頂部の球形岩塊
 基盤岩体の頂上部に当たるところは、岩塊が、風化してコアストーンのように球形化し、水平方向の節理面に沿っても分離して球状の岩塊が形成される。

 この場所にも小規模ながら2,3見られる。 ⇒図の青に着彩した部分。
 木の葉隠れになって、画像が撮れず。
 <変形・破断微地形>

1.転落岩塊による「胎内くぐり岩」の形成
 胎内くぐりの隙間は、一見、右側の岩塊が斜面方向に滑動してできたように見える。
 しかし、右側の岩塊Yは節理割れ目の形が異なり、また、隙間左側の面が全く合わない(画像だと合いそうに見えるが!)ので、滑動による開口割れ目ではない。
 胎内くぐり岩の形成は次のように考えられる。
 (1) 岩壁の端の岩塊CまたはDの頂部が、水平方向の節理面で分離し岩塊Yとなり、脇に転倒転落。下部の本体Cとの間に隙間ができた。
 (2) その隙間にさらに別の破断した分離岩塊Zが落ち込んで、チョックストーンとなった。
チョックストーンは、珍しいようだが、結構良く起こる現象のようである。
2.木の根開口作用
 岩塊BおよびC・Dの間の節理隙間に、大木の根がピッタリはいっている。木の根開口作用が起こっていた証拠である。

 岩壁が壊れる危険を考えて、2本とも目線の高さで切られている。




3.岩体全体が節理面に沿って割れて、階段状にズレている
 岩塊E、D・C、B・Aの順に頂部の高さが下がっている。各ブロックが順次、下方に滑って階段状になっていると考えられる。
 →側面図および側面画像参照。

 心持ち、岩塊A・Bの傾きが、岩塊C・DやEより大きい様に思われる。微妙な違いなので、転落を心待ちする気持ちの僻目かもしれないゆえ、断言は出来ないが。(^_^;)

(以上)
20.東京都北区岸町 名主の滝公園の滝 2013年5月  2013街中ジオ散歩in Tokyo 「石神井川・・・」
 5月10日地質の日の事業、日本地質学会 日本応用地質学会主催、深田地質研究所共催、東京都地質調査業協会後援の、「2013街中ジオ散歩 in Tokyo 石神井川が作る地形の移り変わりと地質」に参加しました。・・・講師が池田先生ということで参加。先生は大熱演でした。
 観察会の内容紹介は、学会のHPを見ればあると思います。 以下、最後に廻った滝について。

 東京都心の滝というと、北区のこの滝が話にのぼるが、わざわざ見に行くほどではなくて、「いつかついでに・・・」滝となっていた。
 話の種に、一見させて貰いました。
 名主の滝公園という公園の中にあり、現在は、男滝・女滝・独鈷滝、湧玉滝の4つがあります。
 公園の故事来歴解説看板によれば、江戸時代には、男滝・女滝の2つがあり、明治以降、独鈷滝と湧玉滝が別の遊水地点から作られたようです。
 勿論、崖途中の湧水を滝に仕立てた人工滝で、観察会での解説では、湧水層は、関東ローム層直下の砂層ではないかとのことでした。
 4つの滝とも、滝面は人工石組み、現在は湧水は涸れているようで、人工水源です。
看板文面
 名主の滝
 名主の滝は王子村の名主畑野家が、その屋敷内に滝を開き、茶を栽培して、一般の人々が利用できる避暑のための施設としたことにはじまるもので、名称もそれに由来しています。この時期はさだかではありませんが、嘉永三年(1850)の安藤広重による、「絵本江戸土産」に描かれた「女滝男滝」が名主の滝にあたると思われますので、それ以前のことと考えられます。 明治の中頃、畑野家から貿易商である垣内徳三郎の所有となり、氏は、好んでいた塩原(栃木県)の景に模して、庭石を入れ、楓を植え、渓流をつくり、奥深い谷の趣のある庭園として一般の利用に供しました。
 昭和七年の文献に、開園期間は四月一日から十一月三十日まで、新緑と納涼と紅葉を生命としていると記されています。
 昭和十三年、垣内家から株式会社精養軒へ所有が移ってその経営する一般利用の施設になり、プールが新たに設けられました。
 昭和三十三年、東京都は、名主の滝を都市計画公園として計画決定し、翌年これを買収、同三十五年十二月から都立公園として公開されるにいたりました。
 昭和五十年四月一日、東京都から北区に移管、北区立の公園となり、同六十一年十月から一年半、大規模な改修がなされました。   
 昭和六十三年三月 東京都北区
嘉永3年の状態を示す絵:絵本江戸土産?

十條の里
女滝 男滝

この邊すべて瀧多し
近来或る人この地の
案内として滝の図を
意(あら)はせるものあり
その数十餘箇所となん
貴賤この近(ちかく)に
集会(つどい)滝を浴て
夏月の炎暑を避る
公園の奥の、滝の懸かる直線的な崖は、下町の低地と山の手の台地を境する崖で、縄文海進の海食崖です。
近くに飛鳥山公園などもあり、江戸時代から下町の人々の行楽地であったところ。

男滝の水量変化

15時゙59分の画像は、観察会幹事、地質学会関東支部の
加藤様提供の画像を処理
彩雲は顔隠しです
 人工滝特有の景色
左:独鈷の滝は、水が出ていませんでした。故障中との張り紙が・・・。
右:男滝の夕方の水量変化。公園の閉園時間は16時30分。それに先立ち16時に水が止まるらしく、ご覧のように変化しました。
 
19.山梨県甲州市勝沼町中原 鎧石 2013年4月・・・・・平行の表層剥離パターンに特徴
 甲州市勝沼町中原地区のフルーツライン路傍にある形状の変わった石。
 傍らの看板には、「牛奥ク八石の一つで、木曽義仲の四天王中原三郎の鎧をかけた伝説が残る」とある。
 中原地区は甲府盆地東縁で鬢櫛川のつくる急な開析扇状地が広がっていて、その低位扇状地面上にある。
 高さ1.1m、長短 1.4×1.2mほど、以前のコアストーン面が半面に見られる破断岩塊である。フルーツラインの造成時に現在位置に1〜2m移動したとのことで、現在は完全に露出した状態である。 さして大きな岩塊ではないが、岩塊表面が表層剥離して、平行な破断割れ目が入り、特徴ある形状をしている。
 破断による全体形が兜に似ているし、なんといっても、表面の表層剥離による平行割れパターンが印象的で,ネーミングにぴったりの石である。
 
 この表面の平行パターンの破断表層割れ目は、花崗岩類の露出岩塊にしばしば見られる、地表露出後の風化作用による形状であると考えている。
 そのことから、この石は、最近の移動以前も長期に露出状態であったと思われる。もともとは、扇状地礫として地下の礫層中にあったものが、扇状地面の農地造成時に掘り出され、その後長く地表に露出した結果、風化した形状であろう。
 近くの民家石垣にも、同様の風化形態を示す石があった。
20.東京都北区岸町 名主の滝公園の滝 2013年5月 

中原地区の扇状地面を望む
山梨県はどこにいっても、里山がかっこいい

鎧石と扇状地面

車はベリーサ。スケール代わりと言うことで。

鎧石 破断前のコアストーン表面

鎧石同様の平行剥離パターンを示す岩塊
16.山梨県甲州市塩山上萩原 踊石 2013年4月
 甲州市塩山上萩原の踊石地区、旧青梅街道沿いの郵便局近く、将軍地蔵堂の前にある巨石。
 ダイダラボッチ伝説にまつわる伝承があり、この石の上に乗って踊ったと言われ、2つの足跡が残っている。鬼が踊った跡ともいう。
 材質は花崗岩、角が丸くなった直方体の岩塊で、5.0m×1.7×1.2mの大きさの完全に露出した伏石。
 地蔵堂のすぐ後ろは、重川の河原で、比高7〜8mの段丘面上にある。 段丘面はロームは乗っていないようで完新世の段丘面のようである。  一見すると、土石流の運んできた巨礫が残ったもの・・・自然の巨礫・・・のように見える。
 ただ、大きさもさほどでない、完全に底まで露出している、地蔵堂の建物の向きにも調和しているなど、「人工の可能性もある」と見た。
 そこで、石の見取り図を作ったのだが、なんと、石の長径の向きが磁石の読みで北から6°東を指していて、見事に真北であることが判明。
 人工的に移動されたのは確実なので、元からここにあった石ではなく、運んできた石の可能性大と考えます。
 このぐらいの大きさなら、運搬可能ですし。
 なお、石の上の足跡の2つの穴は、輪郭が不自然に直線的で人工カットが一部行われている。
15.山梨県甲州市塩山上小田原所在 巨石・裂石  2013年4月
 甲州市上萩原の雲峰寺近くに、「裂石」という地名が書かれており、そこにこの巨石が所在9するのかと思っていたが、さにあらず、それより下流の、上小田原地区の旧青梅街道脇、青梅街道の番所「萩原口留番所」後の直上斜面にあった。
 花崗岩質の超巨大な岩塊で、きれいに二つに割れている。
 高さ4m、奥行き12・3m 幅8mぐらいの伏石。
伝説によれば、「その昔・・・745年6月17日に当地で修行していた行基が大菩薩山一帯の空に霊雲たなびき大地が震動し、山中にあった巨石が真二つに裂け、その割れ目から萩の大樹が生え石上に十一面観音が出現した。それを目の当たりにした行基は、崇高な心で萩の樹を切り取り尊像へと彫刻し、草庵に奉祀し裂石山雲峰寺と名付けた」と言われる

 石の成因
現地で見ると、土石流による扇状地状の地形(沖積錐)である。 甲府花崗岩からなる基盤岩内の風化コアストーンの巨大なものが、土石流で運搬されてきて、沖積錐の扇頂部に出て、水流が広がるために運ばれずに残ったものである。 
  裂石とその周辺の景観。 沖積錐の扇頂部にあたる。画面奥の斜面から流れ落ちてきて、止まった。
画面右側は、沖積錐が形成後、本流の下刻で、急崖ができ、扇頂部の北東側まで削られたガリー地形。最近も崩壊が発生している。

 沖積錐の北東側半分は、本流の侵食の結果下部を削られて急斜面となり、樋状の小谷が掘り込まれている。この斜面にたまたま旧青梅街道が設けられ、その急崖の地形を利用して仕切り柵と番所が設けられたらしい。 



 この急斜面には、最近でも沖積錐の扇頂部のガリーの谷頭で新たな崩壊が発生する等、不安定であり、崖の下に集落が存在することから、大規模な崩壊防止工事が行われていた。

→裂石下の急斜面。
 道は」、旧青梅街道(大菩薩峠越え)
 コンクリ防壁の切れたところが番所跡。
 コンクリ防壁は、樋状小谷の崩壊物落下留め用
 車の所は、樋状小谷の下端位置
 裂石(沖積錐扇頂部)は車の上に見える木の根本付近


茶色に見える車は、本とは赤のベリーサ。


 樋状小谷発達に先立つ、浅い凹地谷地形の発生により、扇頂部にある巨大岩塊の北東側底部の堆積土砂が流失、低下したため、岩塊の北東側部分が滑り、「裂石」となっている。
 割れたのは遙か昔のことであるので、その詳細は分からないが、割れ口は1つのみであり、割れ口の形は節理の割れ目ではないので、岩塊が移動して伏石となって後、岩塊下の土砂移動により開口ヒビが入り、木の根による開口作用で破断したのではないかと想像する。
 破断後、滑って、広い割れ目となっている。
 沖積錐は、完新世のものであるが、本流下刻により段丘化している等、その最初の形成と巨大岩塊の堆積は、当然古代以前のものと言える。ただし、裂石より上流の土石流原は現在でも活動しており、新しい堆積が見られる。

→裂石より上流側の土石流堆上より裂石を見下ろす。巨石の上流側は埋められていることが分かる。
14.山梨県甲州市勝沼町綿塚 大石神社、等々力 萬福寺の馬蹄石 2013年4月
日川扇状地面に残された、馬のひずめ跡のある大石ということで訪れたのですが、いずれも空振りでした。
甲州市勝沼町綿塚 大石神社

昭和33年(1958)刊、勝沼町誌刊行委員会編「勝沼町誌」p1208
によれば、・・・・・・(文体現代風書き直し)・・・・
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 大石神社
・鎮座地 綿塚83番地
・祭 神 石凝姥命
・由 緒
 甲斐国志巻57神社部第3に
除地 社領1石8斗2升3合 社地483坪。
祭る所の神、石凝姥命。殿下に巨石あり。伝に云う、神が憑依する所なりと。地に入る、其の幾ばくかを知らず、上は僅かに2,3尺ばかり見ゆ。
社中に槻樹、4・5株 大は五抱えあるべし。
・・・・・
とあります。というわけで、本殿下の巨石を見に行きました。
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入口に看板あり。 車は新車のベリーサ。(^^;)
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   大石神社
 綿塚の産土神。本殿下にある巨石を御神体とし、この石の表面に馬の蹄のあとがあることから駒塚明神とも呼ばれており、万福寺の馬蹄石と共に古代等々力郷の黒駒伝説と深いかかわりを伝えている。
 現本殿は棟札によれば、安政三年(一八五六)、拝殿は天保二年(一八三一)に建立されており、特に本殿の内部や彫刻等の粗野な造りは綿塚飯縄神社本殿や等々力諏訪神社本殿などと共通しており、当地域に独特の伝説を伝える宮大工集団がいた可能性を示唆しており興味深い。
勝沼町教育委員会
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  「粗野」というのは・・・「簡素」というのが普通ではと思うが。というのはさておいて、

表面に馬のひずめの跡もある興味深い石の様ですね。
 

本殿と拝殿を望む。拝殿の下を覗きましたが石はありません。

 
 

本殿の下を覗くと・・・
「見えない」

全く見えません。(^^;)

まあ、床の高さが低いから、露出して部分は低くて、氷山の一角風に埋まっている石らしい。

 とはいえ、社殿の平面も大きい訳ではないので、すごい巨石ではないですね。
 綿塚地区は、日川の扇状地面上にあり、扇状地面は薄いテフラで覆われているように見えます。
 ただ、大石神社は、扇状地面を刻む浅い谷の緩斜面最上部にあります。
 町史には、この浅い谷が、日川の氾濫流路で、大石がそれによって流されてきたのではという趣旨の記載があります。

 しかし、本殿の位置は、谷斜面の一番上で、ほとんど扇状地面上だし、大石は上が少し出ているだけで埋まっている訳です。
それで、この大石は、テフラ下位の扇状地礫層の礫が谷斜面を作った侵食で上のテフラがなくなり、斜面に露出したものである可能性もあると思います。
 
 しかし、ここまで。 

 見えないんだし、データにならず。 まあ、巨石じゃないらしいから、忘れることにしました。
 帰りがけに遭遇した黒猫。実は、猫好き。特に黒猫は良いですね。
甲州市勝沼町等々力 萬福寺の馬蹄石

 萬福寺は、往時天台宗の寺で、聖徳太子の関わった創設伝説があり、その後、親鸞上人の甲斐国布教ゆかりの地として、浄土真宗に改宗した寺とのこと。
 境内に聖徳太子伝説のある馬蹄石という大石があるので、訪れました。
 昭和33年(1958)刊、勝沼町誌刊行委員会編「勝沼町誌」
p1237〜38 万福寺の項によれば、
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馬蹄石
 駒塚ともいう長さ二間広さ九尺石の面は平らにして馬の蹄の跡四個を留む。伝説によると聖徳太子甲斐の驪駒に乗り富士山、駒ヶ岳に登り還りてこの石に駐したりと。
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さらに、町誌 p1292によると、
松尾芭蕉が「野晒紀行」に著した甲斐国回遊の道すがら、万福寺に立ち寄り、馬蹄石も見たと考えて、万福寺住職三車らの努力により、石の傍らに「行駒の麦に慰むやどりかな」の芭蕉句碑が建立され、地方俳人による句集「駒塚集」が刊行されたとのこと。

長さ3.6m×2.7mの石で、上は平らで、蹄の跡が4つある。 松尾芭蕉も見た名石というわけですね。
 
万福寺は、日川の作った扇状地面上にありました。扇状地面は河岸段丘化して、かなり厚いテフラに覆われています。
 
山門を入ると、本堂への参道右手境内に、列をなして馬蹄石と芭蕉句碑(駒塚)が並んでいました。 うるさいけど、車は買ったばかりのベリーサ。
 芭蕉句碑説明看板の文章
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  万福寺芭蕉句碑
「行駒の麦に慰むやどりかな」芭蕉
 万福寺本堂に向かって右手、馬蹄石の北側にあるこの句碑は『野晒紀行』の「甲斐の国山家に立ち寄りて」読まれた句を刻み、碑の落成を記念して刊行された句集「駒塚集」により、万福寺住職三車上人が中心となり寛政年間(1789〜1801)頃建立されたものであるとされる。
 県内の芭蕉句碑では、柏尾大善寺宝暦十二年(1762)芭蕉翁甲斐塚碑、甲府市善光寺の安永四年(1775)の碑に継ぎ三番目に古い碑で、基礎に石組みで塚を築いた上に建立されており、初期の翁塚の面影を良く伝えている。
 落成の日の歌仙発句は五味可都里で、「駒づかや世にとどろきの影高し」の句を残している。
   勝沼町 教育委員会
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馬蹄石はというと、ご覧のような景観。

岩種は花崗岩
左:参道側から見る。長辺方向。 長さは計測しなかったが、2間は無いですね。
右:山門側から見る。後ろが句碑。こちらも幅が9尺とは思えず。
 とはいえ、万福寺の所在する扇状地面位置ではあり得ない大きさの礫で、角が丸くなっていますから転落岩塊ではなく、土石流運搬の礫だと思います。
 完全に地表に露出していて、境内の地表の上に乗っていて埋まっていません。また、句碑、馬蹄石、参道、本堂と配列も人工的です。
この地点にあったものでなく、別の地点から人工的に運んできたものと思います。

 念のため、境内の地質を見てまわったら、本堂脇に穴があってテフラが見えました。
 馬蹄石は、テフラ堆積後現在位置に乗ったことになる。日川の氾濫による溢流堆積とは考えられない地形なので、人工移動とえるより無いでしょう。

 というわけで、大石神社に続いて、
こちらも自然の巨石データには該当しないということで決着。
山門を出るとすでに夕方で、西方の帯那山がきれいに眺められました。ベリーサを添え物にして一枚撮影。

中央の山が帯那山。火山岩の侵食された山の形  車は買ったばかりのベリーサ。(^^;)
12.山梨県甲州市深沢 大石神社の巨石 2013年4月

深沢の大石神社は日川の支流、深沢川の中流、南側にある。
深沢川の河岸段丘(上流の甲府花崗岩体からの円磨された長径2〜3mの花崗岩礫でできている)の上に、南側谷斜面からの土石流堆(ホルンフェルス化した砂岩・泥岩層からなる)が乗っている地形。 神社は土石流堆上にある。
 砂岩泥岩礫は細かく割れて大きくて30-40cmのものが大部分であるが、時に、巨大な角礫が土石流体の末端付近に見られる。
 この巨礫のうち特に巨大な1個が、神社のご神体となっていて、その前に、社殿と拝殿が作られている。
石の記載: 1.0×2.5×1.5mぐらいの直方体の巨岩で、長辺を土石流堆の傾斜方向に向け、斜めに傾いて周囲から完全に露出している。
 埋まっていないことから、土石流礫というより転落礫と考えた方が良いと思う。 
10.秩父盆地役場めぐり ・・・叶後の牢口  2013年4月
秩父盆地の小鹿野町、秩父市、横瀬町役場に行って、地図集め。
画像は、その後廻った、神流町の叶山東端、白糸滝の近くから叶後の牢口。
「叶後」は今はなくなった集落で、画像左側の裂け目の底を通り、その先にあった。「牢口」は、狭い裂け目の地形を時代劇の牢屋の入り口に例えた名称であろう。
うか。
叶山は、秩父系の付加体海成層に挟まれる海山起源石灰岩層からなる山である。石灰岩層は薄い平べったいレンズ形をしている。
石灰岩層が緻密で風化しないので、侵食され残って、周囲の泥岩から突出した細長い山をなしている。鳥観するとサメの歯が立っている感じである。
 この割れ目地形は、その山の末端が、周りの地層が侵食でなくなったため、支えがなくなり、自分の重みで割れて、細いV字形の鋭い裂け目になって開口している地形。
 叶後の牢口は、画像の左側の割れ目で、山体の底まで裂けて開いている。その右の、画像中央にも,半分ほど裂けて開いた割れ目がある。 とてもかっこいい重力変形地形。

小さく見える車は新車のベリーサ。
09.車が来ました。 2013年4月
 我が家は、車が2台必要で、林道・農道用の軽の1ボックスと、家族送迎用のミニバンの2本立てでずっとやってきました。
ところが、15万km乗ったスバルのサンバーが、さすがにいつ止まってもおかしくない状態になったので、中古のデミオ・・・1300cc、12年間で3.8万kmしか走ってないので 至って元気・・・に、変わりました。
 すると、元気者を見て、歳を感じたのでしょうか、13年間14万km走っただけの三菱ディオン2000ccが、急に年取ってへたってしまい、子どもも大きくなったしと言うことで、1500cc コンパクトカー、マツダのベリーサになりました。こっちは、新車。
 ベリーサは長距離乗っても疲れないので、遠方の山は、こちらになりそう。
デミオ ベリーサ
04.睦沢町女ヶ堰の滝 2013年3月
睦沢町上之郷、広域農道の睦沢道の駅の西方の女ヶ堰公園の中にある。川堰の余水吐の滝
 女ヶ堰は、一宮川支流瑞沢川に、江戸時代初期に作られた川堰である。
瑞沢川は、沖積平野を掘り込んで段丘化している。その河道に基盤の上総層群の砂泥互層が露出している地点に、堰を造成した。
 本流を土堤で堰き止め、堰き止めた水面が一定の高さになるように川の左岸に露出している基盤の山を掘り込んで、余水吐の水路を作った。堰き止めた堤の下流から余水吐方向にも水路を掘り、余水吐末端を滝にしたもの。
 当時は、河床の床固めが十分でないので、余水吐水路を堤に設けることが出来なかったので、基盤岩の山に導水して作成するのが普通である。メンテフリーですので。
 画像右手に流れるが、この水路は人工掘り下げた水路。堰き止め堤は画像外の右手にある。水面と可動堰の上端との高度差が、女ヶ堰の水深。
 江戸時代以来、余水吐水路は板堰であったが、近年、電気で上下回転する金属堰に改変された。画像の滝の上にその可動堰の板が一部見える。橋は、堰上の管理用。

 この手の段は、廻りの人工物に目をつぶれば、水量も多いので見た目は良く、一般には滝と言われています。しかし、私の滝の分類で言うと、流れている水も、滝の段の地形も、ともに自然のものでないので、「滝モドキ」ということになるでしょう。

<リスト>
44.福島県飯野町青木 岩塚 2013年6月
43.福島県飯野町大久保 留石 2013年6月
42.福島県飯野町大久保 ドンドン山の大石 2013年6月
41.福島県飯野町大久保 モアイ石 2013年6月
40.福島県飯野町大久保 高石 2013年6月
39.福島県福島市飯野町飯野 藤加羅神社の立つ石 2013年6月
38.福島県二本松市鈴石 鈴石 2013年6月
37.福島県二本松市太田、白鬚宿 天神遊び石 2013年6月
36.福島県本宮市長屋 鼓石 2013年5月
35.福島県本宮市和田 農村公園 2013年6月
34.福島県本宮市和田 岩角山 山頂・山腹の巨石群 2013年5月 6月
33.福島県本宮市和田 岩角山 蛇舐石 2013年5月
32.福島県二本松市錦町2丁目 明神尊 御神楽岩 2013年5月
31.福島県二本松市錦町2丁目 立石・烏帽子石 2013年5月
30.福島県二本松市錦町2丁目 烏石山 弁天岩・庚申岩・烏石 2013年5月
29.福島県二本松市錦町2丁目 血吹石・耳垂れ石・道陸神 2013年5月
28.福島県二本松市舟石 舟石 2013年5月
27.福島県二本松市上川崎 七石山公園 巨石 2013年5月
26.福島県二本松市上川崎 三ツ石稲荷神社 三ツ石 2013年5月
25.福島県二本松市太田、白鬚宿 椿石・蛙石・庚申塔立石 2013年5月. 6月
24.福島県二本松市太田、白鬚宿 二十三夜塔 2013年5月.
23.福島県二本松市太田、高槻 博打石 2013年5月.
22.福島県二本松市木幡、胎内くぐり岩 2013年5月.
21.福島県二本松市立石、山の神・立石 2013年5月
20.東京都北区岸町 名主の滝公園の滝 2013年5月
19.山梨県甲州市勝沼町中原 鎧石 2013年4月
18.甲府盆地南東方向の山地展望 2013年4月
17.山梨県山梨市牧丘町室伏 日吉山王神社の巨石群 2013年4月
16.山梨県甲州市塩山上萩原 踊石 2013年4月
15.山梨県甲州市塩山上小田原 裂石 2013年4月
14.山梨県甲州市勝沼町綿塚 大石神社、等々力 萬福寺の馬蹄石 2013年4月
13.山梨県山梨市西保中 笠石神社の巨石 2013年4月
12.山梨県甲州市深沢 大石神社の巨石 2013年4月
11.南房総市野島崎展望 2013年4月
10.秩父盆地役場めぐり 2013年4月
09.車が来ました。 2013年4月
08.銚子市西小川町 屏風浦海食崖の風食地形 2013年4月
07.長柄町船木大滝 2013年3月
06.南房総市丸山川滝ノ沢 川廻し地形 2013年3月
05.いすみ市万木城展望 2013年3月
04.睦沢町女ヶ堰の滝 2013年3月
03.銚子半島一見 2013年2月
02.香取市長岡不動堂の滝 2013年2月
01.香取市香取神社要石 2013年1月

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