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滝おやじの巨石奇石の地学 訪問記録
 福島県福島市渡利 的場石(まといし) 2013年 8月訪

図1 的場石の正面・西側面。高さ5m。人型は驚子さん、身長165cmのつもり。
図2 的場石・五輪石位置図
<発端> 
 花崗岩の巨石地形事例を集めるため、福島県の阿武隈花崗岩露出地を廻っています。
2013年8月に、INの巨石情報をもとに、福島県福島市にある巨石を見に行きました。
 東北地方の巨石の事例は、インターネット上のyo-hamada氏のブログ「巨石!私の東北巨石番付」
 (http://hamadas.exblog.jp/ 20130522現在)から、かねがね所在情報を得ています。
 そこから情報を得て、福島市小倉寺、五輪石稲荷神社境内の五輪石と、渡利の的場石も見てきました。
 図2参照。

 五輪石は、阿武隈花崗岩の未風化基盤岩塊の頂部が山地斜面に露出している石のようです。
 的場石は、HP画像と案内看板の写真で見ますと、火山噴出物が固まってできた火山砕屑岩(略して火砕岩)の地層で、それが割れて大きな破断面がある立石となっているようです。 地層は、阿武隈花崗岩を覆っている霊山層という安山岩質火砕岩層と思われます。

 的場石は、花崗岩の巨石ではないので、当初の調査対象から外していましたが、霊山層は阿武隈山地北部で、花崗岩の山地より一段高い霊山(825m)や次郎太郎山(529m)などの突出した山を作っている重要な地層ですので、どんな岩相の岩かなという興味もありました。
 図3 信夫の細道の案内図
 <位置> 
 的場石の位置は、図2を参照。

 福島市街東縁の弁天山から、南東方向へ経城山(242m)へと稜線が続いています。
 弁天山には、椿館という山城の跡があり、かの「安寿と厨子王」伝説で有名とのことで、弁天山から経城山の稜線伝いの道が、安寿と厨子王が城から逃れていった「信夫の細道」と呼ばれる古道とのこと。

 この道沿いの、弁天山と向かい合う峰にある大きな立石が的場石(まといし)です。
 
 <信夫の細道」の看板 その1,その2>
看板 1 ふるさとの良さを見つけよう。

【史跡】信夫の細道
 「山楸太夫の伝説に語られている岩城判官政氏は、この椿館に住み、後に追われる身となって九州に走ったといわれる。一足おくれて、安寿姫(十一歳)厨子王(九歳)も母と共にこの椿館から筑紫の国へ逃れることになった。
 旅支度の幼い厨子王が、このあたりで道にのびてきていた「つつじ」の枝につまづいて指先を傷つけ、不吉な血を見る結果になった。母は傷の手当をしながら、「このつつじめ、お前のようなつつじは、咲かずともいい」と厨子王をはげまして、この道を南へのがれたという。
 それ以来、この椿館には「さかずのつつじ」が生えていたと伝える。
 この古道、かつては相馬への道であったという。  ディスカバー・マイカントリー  福島信夫ライオンズクラブ
 看板 2 信夫の細道
 この道は、ずいぶん古くからあったようで、信達二郡村史には、椿館に起こり、・・・・十万劫を経て中村街道に出る小径とある。
 森鴎外は、小説「山椒大夫」の中で主人公厨子王丸が岩代国信夫郡の住家を出て・・・・と書いている。椿館に城を構えていた父の正氏は、この道を逃れ、後、筑紫に流されたと伝えられ(九百余年前、当時は新旧交代の時期であった。一説には将門の乱に関係とのこと)厨子王がこの道を落ち延びたとの伝えも、まんざら作り話だとは言い切れない。
 厨子王安寿姫物語は全国各地にあるが、椿館と信夫の細道は、昔も今もここであることに変わりはない。
訪れる人の問に答えて、道跡に標柱を立て、道のあらましを誌す。
昭和五十五年十月十八日 渡利地区歴史研究会
  福島県人には常識のようですが、無学にして、安寿と厨子王が福島の信夫郡の人とは知らず、こんな古道があるとも知りませんでした。
図6 的場石位置図 1/2500 
<到達ルート> 
 大体の位置は、福島市中心地に近いので省略。

 詳細な地図(福島市発行1/2500地形図)に、赤丸で示します。図の緑丸地点から、遊歩道を登りました。比高40mほどです。登り口には車を止める余地が少なく、駐車に苦労しました。
 経塚山(242m)への稜線にあたり、位置は標高148mの峰の北西端142m地点ぐらいですが、地図の等高線表現が悪く、峰の形は比高2mぐらいの緩やかな平頂峰で、その一角に露岩の立石があります。
 住所は、福島市渡利と大平山の境で、渡利。 

 緯度経度
 N 37°44′24.39″
 E140°28′39.32″
図7 的場石看板
 的場石脇の説明看板銘文 

 的場石(まといし)
大平山配水池(注:池と行っても山の稜線の上にある暗渠水槽らしく、平らな広場です。)を見下ろす山頂に立つこの奇岩が「的場石」です。その昔、弓の名人那須与一宗高が信夫山(注:阿武隈川対岸の山)からこれを的に射たと伝えられており、また、椿館の諸士もこの石を標的に射術を練ったと言われています。
 ここを管理する近くの八幡院は霊験あらたかな聖地として知られており、この石の上に御幣束を立て、ご来光を仰ぎ諸々の祈願をしたと言います。また、日照りの年には近郷の人がここに集まり、雨乞いの儀式を行っていました。 注)八幡院は、福島市渡利所在。この山の東斜面にある。
 
 この看板、2B弾の弾痕で穴だらけ。不届きな輩がいるものです。
<こんな石があった:立地と地史>
 (1) 立地 

  的場石のある峰は、経塚山(242m)からの稜線の北西端にあたり、標高142mほどで、比高2mぐらいの緩やかな平頂峰です。的場石周辺の、平頂峰上の様子を図8に示す。
 火山灰層に覆われた緩斜面の中央に根石の岩峰が突き出しているという尾根地形です。
 火山灰層を掘って、下を見ないと確実とは言えないのですが、火山灰層の下に根石の続きの霊山層があると思われます。つまり、緩傾斜地と岩峰が過去に同時にできていて、火山灰に覆われている(岩峰の所は流れてしまうから堆積せず)という地形です。
 火山灰に覆われてなく、緩斜面表面に霊山層が露出していれば、普通の山地地形なのですが、火山灰に覆われていると言うことは、緩斜面は火山灰降灰以前に形成された化石地形であることになります。
 
図8 的場石と周辺の緩斜面
 次に、的場石の岩質を見てみました。 
 
的場石正面
上部と下部で顔つきが違う

的場石の表面岩相 ⇒
 
地形地質図
黄茶色:霊山層 桃色;阿武隈花崗岩類
 図9 的場石の岩質
 的場石の正面
伝承での弓の的になった面。立てかけてある杖の長さ約80cm。表面は凸凹していますが、全体は緩やかな曲面で、高さ5mもある大きな破断面です。

 地形地質図
黄茶色:霊山層(火砕岩) 桃色;阿武隈花崗岩類(花崗閃緑岩) 
地形:阿武隈花崗岩の上位に霊山層が堆積した後、侵食により両層とも削られて低い山地になった地形。
赤丸:五輪石と的場石の位置。

 的場石の表面岩相
 岩相:安山岩質の火山礫と、赤褐色に発色した粗粒の火山砂が混じり合った火山噴出物が固結しています。岩種名は火山角礫岩。
 岩塊の風化・移動
 岩塊の新鮮な破断表面では、火山礫の方が硬くて突出していますが、巨岩の上部では、風化が進んでいて、火山礫が基質から分離し、ぽっこり抜けて穴だらけの表面に変わっています。
 なお、的場石手前の緩斜面は火山灰で覆われていて、この岩塊はその上にすべっている。つまり、根石でなく浮き石です。この件については後述します。
  (2) 地史

 的場石の側面は破断面なので、割れた岩塊があったはずなのですが、周りにほとんどありません。そもそも、緩斜面上の現在空中の部分にも固結した霊山層があったはずなのですが・・・・こうゆう所は未風化部分が(コアストーン)が局地的にしか残らず、大部分マサ砂になってしまうので、露出したコアストーン岩の周りが空き地でも何の不思議もない花崗岩の山地と違うところ・・・・全て下方に移動して残っていません。つまり、過去のある時期に、岩峰とその周りに緩斜面が同時に作られるような山の削られ方をした結果ということになります。
 現在の森林限界以下の山地で、このような侵食形を作る侵食は行われていません。
 このような侵食形を作るのは、森林限界以上の周氷河気候下の侵食地形に見られるタイプと言うことになり、周氷河環境での差別侵食による、岩峰(トア)地形が該当します。
 ところが、この地点は、標高が150mしかなく、氷期でも周氷河環境・森林限界以上になる標高よりだいぶ低いのが次なる難点です。
 この点については、この地点が、尾根先端の稜線部分にあり、風の吹きさらしの場所で樹木が生えない風衝草原が局地的にできる場所になっていた(稜線効果と行っています)と考えれば、あり得ないことではなさそうです。
 こうゆうのを、後知恵というのかもしれませんが・・・。(^_^;)
 以上のことを踏まえると、以下の地史になります。
 氷期に火山角礫岩からなる尾根が局地的な裸地(風衝草原)になる。⇒ 周氷河環境下で凍結融解により稜線の地表が侵食されて低下し、削られ残った岩峰(トア)形成と削られて緩傾斜の稜線が形成された。⇒ 氷期が終わり、植生に覆われ、地形は化石化し、緩傾斜地に安達太良火山の降下火山灰層が堆積。
図10 的場石展開図
 <こんな石があった:形態と重力変形>

 的場石を細かく見てみます。
 図10は的場石の展開図。
 図のように、的場石は4つの岩塊に分かれ、割れ口の形と位置から動きが復元できますので、岩塊の動きを記入しました。
 この図から、元々は1つで、Aの上に他の岩塊BCDが載っていて、根石の岩峰(トア)になっていたと復元できます。
 岩峰の分離過程は、
(1) 自分の重みで斜めに破断して、上部BCDがAから分離し、傾斜方向に滑り落ちた。⇒(2)落ちた先で、さらに3つに破断したと考えられます。
 その結果、BCDは浮き石。前述したようにBは火山灰の上に乗りあげています。
 (2)のBCDの破断は、岩塊の下の地面が凸なため、開口破断したのでしょう。
 岩峰の上部が動いて火山灰の上に乗り上げていますので、割れて動いた・時期は、火山灰堆積以後になります。 つまり、岩峰の破断とすべりは、新しい動きです。
図11 正面
 
 図11は的場石正面。岩塊B 図9の再掲。 


 岩塊Bをその気になってみると、ずいぶん傾いていて、画像の右奥方からすべってきていることが分かります。岩塊下の斜面は、降下火山灰層の斜面。
  霊山層・火山角礫岩と侵食
図12 岩塊A方向よりBC裏面を見る

 的場石を作る、霊山層の火山角礫岩を見る。
霊山(825m)といえば、福島市の東方、阿武隈山地北部にある山で、山頂に南北朝期に南朝方の北畠親房が拠った城があり、歴史上メジャーな所です。さらに、奇岩怪石の山として知られ、遠方からもごつごつした山容が目立ち、その山を作っているのが霊山層という火砕岩層。
 霊山層は、阿武隈山地の地形史を知るのに重要な地層で、阿武隈北部各地にあり、奇岩奇石の多い急崖の山を作っている地層です
 霊山層は、厚い地層で岩相変化もあるけど、
主な岩種は、ここにある火山角礫岩らしい。
  火山角礫岩と侵食
図13 同 拡大
 霊山層の火山角礫岩は、陸上に降下堆積した堆積層らしい。ここでは熔結の割れ目はなく緻密、堆積時点で固結していて岩質は硬い。そして、風化すると火山礫が抜けて穴が開くようだが、深部まで空くわけでもなく、また、穴が連続しすわけでもないので、岩体に弱線がないようです。つまり、岩体として硬い岩石のようです。
 また、水に対する浸透性は、多孔質ですからとても良さそうで、その結果、地表水流ができにくいので、谷のできにくい岩石と思われます。 岩石として硬く、かつ、浸透性が良いということは河谷侵食されにくいということですので、突出した、露岩の急崖をもった山を作りやすい岩石のようです。
 露岩になった場合には、弱線がなく風化もしないので、自重での破断でしか割れないので、大きな破断面を作りやすい岩石ではないでしょうか。
<類似立地の地形・巨石>
 花崗岩巨石にも、低い山地の平頭峰で、幅広の稜線上にコアストーンが露出している立地の巨石があります。・・・・阿武隈山地では、竪破山の太刀割石、丸森町泉の立石など。
 氷期に、当時の森林限界高度より標高の低い山地であっても、稜線効果による局地的な風衝草原ができた峰があり、その結果、凍結融解作用により稜線の侵食低下とコアストーンの掘り出しが起こって巨石が露出した例と考えるべきではと思います。
   
図14  竪破山の太刀割石  図15 丸森町泉の立石 
図16 石森山 金刀比羅神社石
<類似の割れ方の巨石>
 どんぴしゃ。

 山梨県山梨市石森山の琴比羅社石。斜めに破断して、すべっている形。
 
 よくある形です。
<アルバム>
   的場石への遊歩道沿いには、大きなキノコがたくさん観られました。

 大きくて・美味しそうな・薄紫っぽい地味なキノコ・・・猛毒の「コテングタケモドキ」じゃないのかなあと思う・・・・がたくさんありましたが、撮影せず。

 もう一種類見かけた、とても美しいキノコ。これもたくさん見ました。いかにも毒キノコ風ですが、食用になるタマゴタケとのこと。
 (以上)
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