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滝おやじの巨石奇石の地学 訪問記録
 福島県三春町蛇石 蛇石  2014年7月訪
 
 蛇石 前方?から見た画像
出向記録 2014-20

 福島県田村郡三春町蛇石地区の弁天神社境内にあります。
 単体のコアストーン岩塊で、全面に表層剥離して、中央の水平な破断面で上下2つに割れていますが、コアストーンの原形をとどめています。
 割れ目は、重力破断による袈裟懸け形の割れ目の可能性が高いです。

 神社のご神体の石であり、敷地がダムに水没するため、神社ごと現在地に移転した石。
 近年に、経済的動機でなく、巨石の移転が行われた、珍しい事例でないでしょうか。
 その経緯を記した記念碑の文章が、水没移転した地元住民の心情を綴った名文です。
<発端> 
 花崗岩の巨石地形事例を集めるため、阿武隈・北上山地の花崗岩露出地を廻っています。
 東北地方の巨石の事例は、インターネット上のyo-hamada氏のブログ「巨石!私の東北巨石番付」 (http://hamadas.exblog.jp/ 20130522現在) から所在情報をもらっています。この蛇石もその一つです。
 ブログを見ますと、大きさや形は特に目立ったものでもなく、二本松市の鈴石のような単独のコアストーンのようでした。
 鈴石については、拙HP http://chibataki.moo.jp/kyosekihukusima/nihonnmatusuzuisi/suzuisi.html 参照。

 石のある様子や大きさから見て、以前見た、山梨県甲州市塩山の踊石のように動かされた石では・・・と思って、寄ってみました。
 踊石については、拙HP http://chibataki.moo.jp/kyosekiyamanashi/kousyuodoriisi/odoriisi.html参照。

 結果をいいますと、この石は元々あった所在地がダム湖の湖底に沈むことになり、村の名前のもとになった由緒あるものだからとのことで、地元の方々の交渉によって、姿・形そのままに、現在地に移動されたのだそうです。
<到達ルート> 
 2.5万地形図では、郡山図幅。
 緯度経度(世界座標)
N37°23′59.52″
E140°29′54.64″
 福島県田村郡三春町所在。

 三春ダムの人工湖さくら湖にかかる新越田和橋近くの県道沿い王子神社と厳島神社があります・・・位置図参照。

 石だけでなく、王子神社も厳島神社も、現在地に水没補償で移転してきたものです。
 蛇石は、厳島神社社殿裏に、庚申塔などと一緒に玉垣に囲まれて置かれています。
  右の画像、手前が県道と広い駐車スペース。

 大きな社殿が王子神社、中央の小さな社殿が厳島神社。
 蛇石は、厳島神社境内、社殿の裏にあります。

 駐車スペースに、愛車ベリーサが停車していますが、その後ろに、神社の移転記念碑があり、名文が刻まれています。

 
王子神社
 
厳島神社
<こんな石があった:立地と形態>
 
 
 蛇石展開図
 高さ1.4m×長径3.8m×短径2.5mほど、阿武隈花崗岩のコアストーンです。

 1個だけの岩塊ですので、単体のコアストーンが地表に露出していたのでしょう。

 卵形の形状で、高さ半分の所に全周に渡るほぼ水平な割れ目が入り、割れ目に沿う欠けが口に見え、たしかに、大蛇の頭のようです。
 コアストーンの球面は頂上部分にだけ残っていて、側面は風化剥離面や節理面に沿って剥げ落ちていますが、コアストーン当初の丸みがある形は十分残っています。
 欠けなどもなく、丁寧に運ばれてきたのでしょう。

 平面形から見ますと、南側側面と北側側面は平行しており、東側側面の直線的ですので、この方向に沿った縦方向の節理面で限られたブロックが、コアストーン化したものと思われます。

 中央をほぼ水平に上下2つに割っている破断面は、展開図からみますと、曲面ですので、節理面にそって割れたのではなく、コアストーン露出後の重力破断による袈裟懸け割れ目と思われます。 しかし、移動されているものですので、確定はできません。

南面

西面
 
北面

東面 
 <歴史資料> 

 蛇石は、厳島神社のご神体の石であり、かつ、地区の名前の元にもなった石でした。
 敷地がダムに水没するため、神社ごと現在地に移転しました。
 その経緯を記し、昭和63年(1988年)に建立された記念碑が、王子神社前にあります。
 その碑文に水没移転した地元住民の心情を綴られており、何度も言うけど名文。

以下、銘文・・・・読みやすいように改行しました。
画像から、翻字しましたので、文字の翻字ミスがあるかもしれません。→拡大画像
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記念碑
 数々の伝承と、豊かな伝説を持つ蛇石。祖先が永きに亘り、苦難に耐え、山野を拓き耕し、墳墓の地としたこの地区で、昭和四十三年ダム建設の基礎調査が始められた。為に、生業に係る計画立案もままならず、我々は動揺し困惑した。
 同四十五年、建設計画が発表され、我々は生活再建、移転問題等々幾多の難題を抱えながらも、事態の推移黙し難く、補償基準の妥結を決断した。時に同五十九年十二月である。
 鎮守王子神社は、社殿を解体せず、所謂「曳き舞」工法により現在地に遷す。
 厳島神社(又の名を、弁天様、蛇神様とも)の御神体は、「蛇石」と呼ばれる大石で、地名発祥の謂あるものなれば、姿、形を変えることなくその處を移した。
 昔より伝えられた祭典行事の一つ、三匹獅子舞は、氏子大半の移転のため、廃止の止むなきに至った。
 この碑の前に佇む時、湖底に、豊かな耕地あり、それを潤した祖先の大いなる遺産であった潅漑用水路あり、その中を県道栃本線、大越線が走り、傍に鎮守の森を見 農協支所、郵便局、公民館、商店が軒を連ね、戦後誰言うとなく「蛇石銀座」と呼ばれ親しまれた聚落があったことに、思いを馳せられたい。
 我等がこよなく愛した故里、蛇石の歴史を、永遠に留めるべく、我々はこの碑を建立する。

  昭和六十三年十二月吉日
             撰文 村上民之助
                宗像慶夫
                橋本元春
         元中郷小校長 橋本義男
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平易な文章ですが、惜別を惜しむ心情溢れる名文です。
近年に、経済的動機でなく、巨石の移転が行われた、珍しい事例ではないでしょうか。
 (以上)
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