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滝おやじの巨石奇石の地学 訪問記録     
  福島県本宮市和田 蛇舐石(じゃねぶりいし) 2013年5月訪
 ポインターを画面上に置いて下さい。タフォニ部分を拡大。
 この岩は、本宮市和田にあり、巨石で有名な岩角山への入口交差点角にあります。 ⇒図参照
 花崗閃緑岩の風化したマサからなる丘陵の尾根先端に、未風化の花崗閃緑岩岩体が岩塊群となって露出しています。
 この露岩の内、一つの岩が、タフォニと呼ばれる表面風化形を示していて、その形に注目して「蛇舐石」とよばれています。
 タフォニは花崗岩の風化微細地形としてよく紹介されている形状です。 しかし、今まで、福島県の阿武隈花崗岩、山梨県の甲府花崗岩、栃木県名草の花崗岩などの巨石地形と見てまわってきたが、タフォニは、この石以外、まずみられません。
 タフォニの希少性から、さほど大きくもないこの石が特殊視されたのでしょう。 

<発端>
 
 花崗岩の巨石地形事例を集めるため、福島県の阿武隈花崗岩露出地を廻っています。
 5月に、岩角山などがある本宮市と二本松市を歩きました。

 蛇舐石は、巨石群で有名な岩角山入口にある石ですが、岩角山とは離れていて、地形の成因も異なるので別途紹介します。 
 用語:タフォニ
地中海のコルシカ島での名前を元にした微細地形用語。花崗岩類のような結晶質の岩石の露岩表面に生じる、風化作用によって岩石内部の物質が除去されて生じた小規模の穴状の凹み地形。
 転じて、,乾燥・半乾燥地域や湿潤気候地域の日射の強い海岸露岩など観察される穴状微細地形をいう。湿潤気候地域の内陸部でも、露岩の崖や山頂部などで見られることがある。日本では、砂質岩や凝灰岩などに見られ、花崗岩にはほとんど見られない。
 乾湿変化や温度変化、塩類風化などによる岩石の粒子化と、風や波等の除去作用により、穴の形成と発達がおこり、丸みを帯びた、溶けたような特有の形状の穴が成長すると考えられている。
 日本のタフォニ画像の例 http://www.jsce.or.jp/committee/jiban/slope/100330/3-11nishiyama.pdf
 <蛇舐石の読み方 じゃわぶりいし、じゃなめいし、じゃねぶりいし ? か> 

石の名前は、字では、蛇舐石 別名 蛇冠石(じゃかんむりいし)ですが、蛇舐石の読みは出典により、さまざまです。
 じゃわぶりいし: 石の前の看板・東北巨石番付・・看板文面は、確かにこう読めるのだが、かすれて消えかけているので、「ね」が「わ」にみえるのかもしれない。(^o^)
 じゃなめいし:岩角山HP:今風に読めばこうだが、昔風でないなあ・・・。
 じゃねぶりいし:白沢村史各論編U自然・地名・人物 村史の記述(後述)文中に、読みとしてルビが振られています。

ここは、いかにも古語風な読みであるし、なんといっても村の方々のチェックを受けていると思われる村史の記述をとって、「じゃねぶりいし」と呼ぶことにします。


 <記述の色々 それらをまとめると・・・> ・・・縦書きを横書き、漢数字、振り仮名などを変えてあります。

  <蛇舐石前の看板 銘文> 

 岩角山蛇舐石の由来
承久年代(西・1219年)の頃この地に宗基と云う郷司が居り妻女を亡くしてからは日夜酒食に耽けり里人に過重なる年貢を課し、かつは里の婦女子を我がものとした乱業は目にあまるものがあった。
宗基のために衣食に事欠き、身を滅し世を去って行った里人や里娘が日と共に増していった
この人達の怨霊が蛇となって郷司宗基を亡ぼさんと館の岩に群り石を舐、岩を掘したと伝えられております。
またこの岩に群る蛇が白蛇でありその様が冠の様にも見えたと云うので蛇冠石とも呼ばれ
ております

 (感想)⇒タフォニの凹みを、蛇が舐めて岩を崩すと解釈し、また、凹み残った凸部は細長くて白蛇のようですから、メヂューサ風に蛇冠というのも分かりますね。

 <岩角山岩角寺のHP 蛇舐石(じゃなめいし)/蛇舐石観音 の項>
  http://www.iwatsunosan.jp/sanpaipoint1.html 2013年6月9日現在

 承久年代、この地に「宗基」という郷士がおりました。宗基は妻女を亡くしてから、日夜酒食に耽り、里人に過重な年貢を課し、里の婦女子を我がものとしたりと目に余る乱行を行うようになりました。
 そのために衣食に欠き身を滅ぼした多くの里人や娘達の怨霊が、執念の蛇となって宗基を殺そうと、宗基の館の岩に群がり石を舐め、岩を崩したと伝えられています。
 岩に群がる蛇は全て白蛇であり、群がった姿が冠のようにも見えたので「蛇冠石(じゃかんむりいし)」とも呼ばれています。
 岩上の観音像は昭和52年2月、岩角寺第36世住職 俊董僧正の発願により、仙台市の宮城交通株式会社社長 千葉三二郎翁から寄進され、白蛇観音として往時の、無縁の霊を慰めるべく建立されました。

 (感想)⇒石のよみかたが違うが、内容は同じ。宗基は、郷司から郷士へ。
     新情報:岩の上の観音様の由来が述べられています。


 <白沢村史各論編U 自然・地名・人物 第2章 白沢村の地名 p75 1989年刊 の記述>

 字東屋口 地名 蛇冠(じゃかぶり)の項
近世(天保二年)蛇冠に屋敷三軒とあるが、明治期字東屋口に併合されたが、俗称では現在も残っておりその由来は、岩角山参道入りロの道路沿いに大蛇が舐めたような大岩があり、蛇砥石(じゃねぶりいし)といった。
伝説によると、昔、和田宗基という地頭がいた。宗基は妻に先立たれ、日夜酒食乱業にふけり里人に過重な年貢を強要し、果ては里の婦女子も我が物にするなど、その乱行は目に余るものがあった。このため、暮らしに事欠き身を滅ぼした里人や里の娘たちが日とともに多くなった。世を去った里人たちの怨霊が白蛇となって、宗基を滅ぼさんと館の岩に群がり、岩を砥め石を崩したと伝えられる。
群がる白蛇が冠のようになって見えたというので蛇冠石(じゃかんむりいし)とも呼ばれる(岩上には宮城交通社長千葉三二郎翁の寄進による白蛇観音がまつられている)。
道路拡幅のため一部切り取られたが、蛇に舐め取られた岩石の一部は残っている。
この宗基に、玉絹という美しい一人の娘があった。父の悪行をやめるように幾度も頼み願ったが父は一向に改めなかった。
玉絹はひそかに館を抜け出して貧しい里人たちに衣類や金品を施したり里女たちの機織りを手伝って少しでも父の罪の償いをしようと心がけた。
また岩角の修験僧と力を合わせ養蚕を教え、絹糸をたぐり草木の汁を染料とした模様の織物を作り販売することを教えた。これがこの地方に養蚕が広まった基であるという。

(感想)⇒新情報
 ・地名:蛇冠(じゃかぶり)と石の名前:蛇冠(じゃかんむり)石では、同じ字でも読みが違うのですね。
地名の方が公式な名称で、改変されにくいと考えられるので、「じゃかぶり」の方が古名なのかも。
 ・同じ理屈で、蛇冠石は、地名の元になっている名称なので、「蛇冠石」の方が「蛇舐石」より本来の名称だったのではないでしょうか。
(つっこみ)⇒
 ・宗基は、和田宗基という地頭ということですね。和田の地名は、和田氏にちなむものだそうだから、その一族ということか。 なお、もとから悪逆無道なのでなく、奥さんを亡くしてからということなので、人間的興味も感じます。
 ・聖女と聖者として、娘の玉絹と岩角寺の修験僧が登場。この地域の養蚕・機織り産業と特産品草木染めの伝搬・発祥に関する岩でもあるらしい。


 <岩角山の玉絹物語の看板 銘文>

 1‐F 玉絹(たまぎぬ)物語
 今から700年ほど昔、正覚という若い僧が岩角山(いわづのさん)に草庵を結び、里人に信仰を説き養蚕と機織りを教えて貧しい人々に生きる喜びを伝え救済に努めておりました。
 当時の地頭、和田宗基は妻に先立たれた後、酒池肉林にふけり重税を課しましたので、貧困の中に亡くなった人たちの怨霊は白蛇となり館の岩に群がって崩してしまいました。これが蛇舐石(へびなめいし)です。
 宗基の娘、玉絹は、密かに貧しい里人に金品を施し、機織りを手伝い父の罪を償っておりました。その玉絹に正覚は心ひかれ、ふたりに愛が芽生えました。また、玉絹の教えた草木染めの織物はすばらしく暮らしは次第に楽になっていきました。
 しかし、宗基が更に重税を課したので、正覚は税の軽減を訴えましたが、悪僧として死刑を宣告されてしまいました。その夜、玉絹は正覚を救うために牢を開きましたが、正覚は、「私ひとりの死で里人を救えるなら。」と断り、「恋しくば 南無阿弥陀仏と 唱うべし 我も六字の中にこそあれ」と書き残し刑場の露と消えました。玉絹もまた池に身を沈めてしまいました。 さすがの宗基も目が覚めたと伝えられています。
 この物語は「あだち野のむかし物語」1‐Fに掲載されています。
    安達地方新しい旅実行委員会
    お問い合わせ電話0243-22-1101(自治センター内)

 (感想)⇒
新情報:修験僧は正覚という名で、正覚は殉教。玉絹は、投身。宗基も、後悔改心する。
 物語として脚色された話ということで読むとしても、聖僧が殉教し、聖女・娘が身を投げて、悪逆無道の領主・親が改心するという話になり、仏教説話として完結ですね。
 そこに、地名・奇石伝承と産業発祥伝承が関連づけられているようです。 この伝承の元になった、説話があるのでないでしょうか
(つっこみ)⇒
 天台宗系修験僧が、真宗門徒のように、六字名号で殉教というのは、不自然と思います。それに、1200年代(承久年間)では、蓮如上人以前だし、真宗がないか (^_^;)
 
  <立地> 


この岩は、本宮市和田にあり、巨石で有名な岩角山への入口交差点角にある。
周辺は、なだらかな低い緩やかな山地です。

蛇舐石の対岸を眺めたところ。
緩やかな山とそれに入る短い緩やかな支流の谷。
手前の川は少し行くと谷中分水界で別の水系に変わる、つまり、現在の川が形成した谷の地形でなく、過去の地形が引き継がれている化石の谷。
 後述しますが、蛇舐石とその背後の地点で、地下の未風化の花崗岩体が長さ30m、高さ7〜8mぐらいのフタコブ駱駝の背のような高まりをつくっていて、蛇舐石はその西端の表面岩塊です。
 この高まりには、マサの尾根がつながっていて、岩角山へと続いています(地図の緑線、画像の稜線)。
 川が山を掘って尾根を作っていく過程で、蛇舐石の基盤高まりが不動点になって、それに続くマサの部分が保護され、尾根となった地形と言えます。 見かけ上巨岩が尾根の末端にあるが、実は、巨岩から尾根が始まっているといえる地形です。
 このような、尾根の末端部に立地する巨石の例は非常に多い。           右端、スケール代わりの車は、新車のベリーサ。
 <コメント:巨石の立地、地形、地下の未風化岩塊との関係> 

 この地域では、山も谷も、阿武隈花崗岩が基盤となっていますが、新鮮な部分はほとんど無く、谷底より上は風化して大部分がマサになっています。 ところどころの採取場で山の断面を見ると、文字通り、山の根元まで腐っているというかマサ化していて、所々に風化し残ったコアストーンが散在している砂の山と化しています。しかし、全面的にすべてマサ化しているというわけでもなく、局部的に風化してない新鮮な基盤の花崗岩岩体が地下から高まって地表に露出している所もあります。
 つまり、ほとんど未固結の砂だが、たまに、巨大なコアストーンがあったり、未風化の基盤岩体があったりし、そこはもの凄く硬い部分があるという物性の地盤になっているわけです。その地盤が侵食されていく過程で、巨大コアストーンや未風化基盤の高まりが、地形としては、残丘、峰頂部、稜線の肩部分、尾根の末端部などになり、そこに巨石が見られることが多いようです。
 特に、尾根の末端部にある巨石が多いのは、里に近いからだけでなく、山頂や稜線にある岩より、侵食により露出しやすいせいでもあるでしょう。
 <岩塊の様子>

(1) 尾根側のコブをなす基盤岩体の様子

 (左画像) 基盤岩体起源岩塊とその転落岩塊が斜面に露出している。・・・・・一瞥のみ。後日機会があったら詳細調査。

 (右画像) 露出している岩石の地肌。 岩種は、花崗閃緑岩ということです。見たところ未風化でがっちりしています。
       指はスケール。爪の幅が8mm。
(2) 蛇舐石側のコブをなす基盤岩体の壊れ方

  (左画像)
 2つのコブの鞍部の切り通し道より、蛇舐石の裏面を見る。このコブが、コアストーンでなく、未風化基盤岩体の高まりであることが分かります。 面上部の木の生えている岩塊が蛇舐石。
 シャープな割れ目が入っていて、岩体は岩塊に分離しています。この割れ目は平面的でなく曲面の割れ目ですので、基盤本体に本来はいっている節理割れ目でなく、岩体が露出したことによる後成的な破断割れ目と判断します。
 この割れ目に上部から木の根が入っていて左上部の岩塊は木の根開口で押しのけられています。

  (右画像)
 反対側から見る。画像左側の割れは、上の画像の右の割れ目の続き。岩体の表面に沿った曲面の破断割れ目であることが分かります。
画像右側の岩体末端では、岩体がより細かく破断されていて小さい岩塊に分かれています。
さらに、岩体上部には木が生えていて、木の根が割れ目に入り込み、木の根開口作用を及ぼしています。
(以上)

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