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滝おやじの巨石奇石の地学 訪問記録     
  山梨県甲州市勝沼町綿塚 大石神社、等々力 萬福寺の馬蹄石 2013年6月訪
<結果>
大石神社のご神体石は見られず。萬福寺の馬蹄石は人工移動の石であった。
甲州市勝沼町綿塚 大石神社の神体石
昭和33年(1958)刊、勝沼町誌刊行委員会編「勝沼町誌」p1208
によれば、・・・・・・(文体現代風書き直し)・・・・
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 大石神社
・鎮座地 綿塚83番地
・祭 神 石凝姥命
・由 緒
 甲斐国志巻57神社部第3に
除地 社領1石8斗2升3合 社地483坪。
祭る所の神、石凝姥命。殿下に巨石あり。伝に云う、神が憑依する所なりと。地に入る、其の幾ばくかを知らず、上は僅かに2,3尺ばかり見ゆ。
社中に槻樹、4・5株 大は五抱えあるべし。
・・・・・
とあります。というわけで、本殿下の巨石を見に行きました。
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入口に看板あり。 車は新車のベリーサ。(^^;)
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   大石神社
 綿塚の産土神。本殿下にある巨石を御神体とし、この石の表面に馬の蹄のあとがあることから駒塚明神とも呼ばれており、万福寺の馬蹄石と共に古代等々力郷の黒駒伝説と深いかかわりを伝えている。
 現本殿は棟札によれば、安政三年(一八五六)、拝殿は天保二年(一八三一)に建立されており、特に本殿の内部や彫刻等の粗野な造りは綿塚飯縄神社本殿や等々力諏訪神社本殿などと共通しており、当地域に独特の伝説を伝える宮大工集団がいた可能性を示唆しており興味深い。
勝沼町教育委員会
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  「粗野」というのは・・・「簡素」というのが普通ではと思うが。というのはさておいて、

表面に馬のひずめの跡もある興味深い石の様ですね。
 

本殿と拝殿を望む。拝殿の下を覗きましたが石はありません。

 
 

本殿の下を覗くと・・・
「見えない」

全く見えません。(^^;)

まあ、床の高さが低いから、露出して部分は低くて、氷山の一角風に埋まっている石らしい。

 とはいえ、社殿の平面も大きい訳ではないので、すごい巨石ではないですね。
 綿塚地区は、日川の扇状地面上にあり、扇状地面は薄いテフラで覆われているように見えます。
 ただ、大石神社は、扇状地面を刻む浅い谷の緩斜面最上部にあります。
 町史には、この浅い谷が、日川の氾濫流路で、大石がそれによって流されてきたのではという趣旨の記載があります。

 しかし、本殿の位置は、谷斜面の一番上で、ほとんど扇状地面上だし、大石は上が少し出ているだけで埋まっている訳です。
それで、この大石は、テフラ下位の扇状地礫層の礫が谷斜面を作った侵食で上のテフラがなくなり、斜面に露出したものである可能性もあると思います。
 
 しかし、ここまで。 

 見えないんだし、データにならず。 
 帰りがけに遭遇した黒猫。実は、猫好き。特に黒猫は良いですね。
甲州市勝沼町等々力 萬福寺の馬蹄石
 萬福寺は、往時天台宗の寺で、聖徳太子の関わった創設伝説があり、その後、親鸞上人の甲斐国布教ゆかりの地として、浄土真宗に改宗した寺とのこと。
 境内に聖徳太子伝説のある馬蹄石という大石があるので、訪れました。
 昭和33年(1958)刊、勝沼町誌刊行委員会編「勝沼町誌」
p1237〜38 万福寺の項によれば、
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馬蹄石
 駒塚ともいう長さ二間広さ九尺石の面は平らにして馬の蹄の跡四個を留む。伝説によると聖徳太子甲斐の驪駒に乗り富士山、駒ヶ岳に登り還りてこの石に駐したりと。
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さらに、町誌 p1292によると、
松尾芭蕉が「野晒紀行」に著した甲斐国回遊の道すがら、万福寺に立ち寄り、馬蹄石も見たと考えて、万福寺住職三車らの努力により、石の傍らに「行駒の麦に慰むやどりかな」の芭蕉句碑が建立され、地方俳人による句集「駒塚集」が刊行されたとのこと。

長さ3.6m×2.7mの石で、上は平らで、蹄の跡が4つある。 松尾芭蕉も見た名石というわけですね。
 
万福寺は、日川の作った扇状地面上にありました。扇状地面は河岸段丘化して、かなり厚いテフラに覆われています。
 
山門を入ると、本堂への参道右手境内に、列をなして馬蹄石と芭蕉句碑(駒塚)が並んでいました。
 うるさいけど、車は買ったばかりのベリーサ。
 芭蕉句碑説明看板の文章
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  万福寺芭蕉句碑
「行駒の麦に慰むやどりかな」芭蕉
 万福寺本堂に向かって右手、馬蹄石の北側にあるこの句碑は『野晒紀行』の「甲斐の国山家に立ち寄りて」読まれた句を刻み、碑の落成を記念して刊行された句集「駒塚集」により、万福寺住職三車上人が中心となり寛政年間(1789〜1801)頃建立されたものであるとされる。
 県内の芭蕉句碑では、柏尾大善寺宝暦十二年(1762)芭蕉翁甲斐塚碑、甲府市善光寺の安永四年(1775)の碑に継ぎ三番目に古い碑で、基礎に石組みで塚を築いた上に建立されており、初期の翁塚の面影を良く伝えている。
 落成の日の歌仙発句は五味可都里で、「駒づかや世にとどろきの影高し」の句を残している。
   勝沼町 教育委員会
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馬蹄石はというと、ご覧のような景観。

岩種は花崗岩
左:参道側から見る。長辺方向。 長さは計測しなかったが、2間は無いですね。
右:山門側から見る。後ろが句碑。こちらも幅が9尺とは思えず。
 とはいえ、万福寺の所在する扇状地面位置ではあり得ない大きさの礫で、角が丸くなっていますから転落岩塊ではなく、土石流運搬の礫だと思います。
 完全に地表に露出していて、境内の地表の上に乗っていて埋まっていません。また、句碑、馬蹄石、参道、本堂と配列も人工的です。
この地点にあったものでなく、別の地点から人工的に運んできたものと思います。

 念のため、境内の地質を見てまわったら、本堂脇に穴があってテフラが見えました。
 馬蹄石は、テフラ堆積後現在位置に乗ったことになる。日川の氾濫による溢流堆積とは考えられない地形なので、人工移動とえるより無いでしょう。

 というわけで、大石神社に続いて、
こちらも自然の巨石データには該当しないということで決着。
山門を出るとすでに夕方で、西方の帯那山がきれいに眺められました。ベリーサを添え物にして一枚撮影。

中央の山が帯那山。火山岩の侵食された山の形  車は買ったばかりのベリーサ。(^^;)
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