阿武隈山地・宮田川渓谷、日立市本山の不動滝  滝の地学記録カード    HPトップへもどる 
 <趣旨> 阿武隈山地の南端、日立変成岩からなる山々をちょっと通りすがりで見てきました。
         そこで見た滝が、本山地区の不動滝(赤澤不動尊の不動滝)です。
         滝そのものは平凡ですが、立地しているところが非凡。 あと、石英片岩の滝は珍しいかも。
         長文ですみません。
 <もくじ> 文中の図は、滝おやじ作図。無許可複製不可です。 
   概要    ・・・・・牛のよだれのように延々と下に続いています。 お急ぎの方は、概要だけで。(^_^.)
   歴史遺物
   滝の名称
   滝の地学
    1.宮田川の侵食史と不動滝の位置づけ
    2.河床の岩質と滝の立地
    3.遷急点の移動
    4.滝の最近の変動
   参考文献
 滝の概要
 
●調査日 2008/12/18 
●調査者 滝おやじ
●所在地 日立市本山(もとやま)地区 赤澤不動尊 
●概略位置 交通地図は→こちら。 日立市の日立鉱山跡の近く

●交通位置 難易度 簡単。 不動尊は、国道の脇にあり、1-2台なら駐車できます。不動尊境内から滝は眺められます。ただ、滝下に降りる踏み跡は見当たらず。 ロープが必要。より下流から廻れば踏み跡があるかもしれません。

●水系  宮田川
●渓流名 宮田川水系長峰水路  260m地点。
●地図  5万日立 2.5万町屋
●緯度経度 北緯36度37分25.3秒,東経140度36分36.8秒(世界測地系)

●流域面積 2.89平方km
●滝高 8m+(未測定)
●岩質・構造 日立変成岩の絹雲母石英片岩 断層面に滝面が一致。 
●成因 本流型の滝
●変遷 泥質片岩及び緑色片岩を削って後退してきた遷急点が、石英片岩層に当たり、石英片岩層との断層面に沿って滝面を掘り出し、停止しているもの。滝を最上流とする遷急区間の侵食後退量は、阿武隈山地前面より約2000m。
●年代 遷急区間の形成開始は、主に完新世の気候変化による下刻によって形成されたものと思われる。
●現状と最近の変化
 滝面 縦横比 1:3に近く、幟(しょく)瀑。
 縦横比による分類は、
  拙HP http://chibataki.poo.gs/keikanbunrui/keikanbunrui01.htm 参照

 形態は、面滝複合型、線型急傾斜副滝。部分滝壺、滝面断層面掘り出し。
 現在の滝の形成は、下刻の先端が河床の石英片岩層に当たったため、一時的に侵食の停滞が起こったことによる。最近に形成されたものと思われますが、年代は不明。 後退量はたかだか20m程度。
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入口の宮田川の橋 橋の下に、不動滝がある 境内石塔・明治以降のもの
赤澤不動尊由来看板 赤澤不動尊の御堂

日立鉱山の守り神の赤澤不動尊(赤澤は、日立鉱山の江戸時代の名称)の入り口にあります。

赤澤不動尊説明板の銘文

 赤澤不動尊の由来
 赤澤不動尊は古く山岳信仰の盛んな頃、修験者がこの滝を選び難行苦行したことに始まり、江戸時代末期には、長久保赤水の三男であった大塚源五衛門により赤澤銅山の開発がなされました。その頃すでにこの不動尊があり、尊崇されていたものと思われます。
 その後、明治三十八年久原房之助翁が赤澤銅山開発に着手し、奇しくも滝壷で古い不動明王石像を発見したので、御堂を建立しこの尊像を安置しました。
 以来、日立鉱山の安全保護の守り本尊とし山中友子 古田亀八郎氏等により祭祀が続けられてきました。
 今日の日立市発展の源とされる日立鉱山の貴重な歴史的遺産であります。
 不動明王は、水難、火難を除き私達に智恵と勇気を授けてくれます。また、大日如来の使者とされるこの不動尊が、日立市発祥の地であるこの地に安置されておりますことは誠に意義深いことです。この意味から昭和五十六年六月に御堂改築を行ない、大切に保存保護に努めております。 日立鉱山関係有志一同  撰文 永沼義信

 文献 水嶋 保(2005) 茨城の滝 p101。 に、「本山の不動滝」として紹介あり。 
 滝の名称      ページのはじめに戻る
 滝の名称は、水嶋氏著「茨城の滝」に準拠していますので、ここでは、「本山の不動滝」とします。
 ただし、本山(もとやま)は、大字名であり、滝の名前ではなく所在の注記と考えるべきです。さらに、この滝のある宗教施設名の赤澤不動尊を使ったほうが、場所が特定されますから、「赤澤不動尊の不動滝」あるいは「赤澤不動滝」と言った方が正解でしょう。
 日立市のHPには記載がありませんが、オトマッキー氏の日本の滝データベースでは、赤沢不動滝となっています。
 滝の地学      ページのはじめに戻る
 1.宮田川の侵食史と不動滝の位置づけ
 
図1.宮田川流域概略図と本山の不動滝位置
5万地形図+カシミール3Dによる

<段彩凡例>
・・・基本的に100mごと
橙:500m以上
濃緑:400-500m
緑 :300-400m
紫 :200-300m
淡紫:100-200m
黄緑:20-100m
黄 :0-20m

<小起伏面の分布>
・・・上位よりV面〜Z面が分布。

V・W・X面:橙色の山頂、尾根頂上部分に分布。
 ただし、神峯山山頂は、V面の侵食面
Y面:緑色下部から紫上部にかけての尾根頂上
Z面:紫下部から淡紫上部にかけての尾根頂上
 宮田川流域は、他の川の流域より侵食が進んでいる。

 図1に、宮田川流域の概略図を示します。
 宮田川流域の地形は、V面〜Z面の小起伏面からなる山地が、宮田川の侵食復活によって、下刻された地形です。
 宮田川の本流沿いに、深い谷が掘れていますね。
 
 では、どのように掘っているのでしょうか。
 2.5万地形図から、宮田川本流と主要支流の河床縦断面図(第2図)を作り、宮田川の下刻侵食の様子を見てみました。

図2.宮田川本流と支流の河床縦断面

 図でわかるように、宮田川の本流と支流には、3つの遷急点(図の赤と青と黒●)があります。そのことから、宮田川の河床縦断面は、4つの時期の河床に分けられます。
 T期の谷:赤より上流の谷
 U期の谷:青から赤にかけての谷
 V期の谷:黒●から青にかけての谷
 W期の谷:黒●より下流の谷 の4期あることが分かります。つまり、T→Wの谷を順次掘り下げて現在に至っているわけです。

 このT〜W期の谷の年代は、小起伏面Z面(早川ほか1997)より当然新しいことは、図2から明らかです。
 他の年代の分かる地形として、下流平野部に段丘面の田尻沼T、U面(小池ほか2005)があります。

 予察ですから、確実ではありませんが、T期の谷は、下流平野の田尻沼T面(同位体ステージ5e、いわゆる下末吉面)、U期の谷は、田尻沼U面(ステージ5c、いわゆる小原台面)に当たる可能性があります。

 V期の谷は、現在の海面を侵食基準面とする河床縦断で、標高140mから270mにかけてが遷急区間になり、狭い峡谷をなしています。
 V期谷の形成開始年代は、下流平野部の田尻沼U面(同位体ステージ5c)の段丘化の年代までさかのぼる古い時代ですが、現在の谷は、2万年前からの気候変動による下刻により拡大したものと考えられますので、完新世以降の新しい地形と考えたほうがいいと思います。

 なお、W期の谷は、V期谷の峡谷底をさらに掘り込んでいる最新の谷ですが、比高は10m以下で、下流側ではV期の谷と区別できません。
 ただ、W期の谷の遷急点は、不動滝の下流にありますから、最新の侵食はそこで行われていることになります。
 本山の不動滝(赤澤不動滝)は、図に見られるように、V期谷の遷急区間の最上流部にあり、V期の谷の遷急点にあたります。
 2.河床の岩質と滝の立地      ページのはじめに戻る
 遷急点の位置と地質の関係を見るため、地質図と地形図を組み合わせた図を作ってみました。地質図の精度が5万地形図オーダーでしたので、5万の地底図に合わせてあります。
 
図3. 本山の不動滝付近の地質と地形図

 宮田川の山地部分の地質は、日立変成岩類からなっています。変成岩類の岩質は、地質図にあるように、圧砕花崗岩、変輝緑岩、石英片岩、緑色片岩、石灰岩及び泥質片岩の5つからなります。・・・石灰岩と泥質片岩が地質図で一括されているのは図の作成に当たっての便宜上のことだと思いますが、河川侵食に対してあまり強くないと言う点で同一視できると思われますので、一括します。

 圧砕花崗岩部分の谷は、遷急区間より下流の開けた谷底平野となっていますので、ここでは関係なしです。

 峡谷になっている、V期谷の遷急区間の地質は、石灰岩・泥質片岩緑色片岩石英片岩の3つでできています。

 峡谷部分の地質と河床縦断の関係を見るために、河床縦断面に、その3つの岩石分布を入れてみた図4を作りました。

図4.不動滝下流の遷急区間の河床縦断と岩質

 (1)石英片岩が不動滝を作っている。
 (2)石英片岩の位置から下刻が始まっている
・・・の2点から、石英片岩が下刻侵食に強い岩石として作用していることがわかります。
 この3種の岩石では、一般的に、石英片岩→緑色片岩→泥質片岩・石灰岩の順に、河川侵食に強いと考えられますが、ここでも、その通りのようです。この強弱の差は、石英片岩→泥質片岩の順に、岩質の硬さ、片岩の片理割れ目の頻度の大小、風化しにくさの大小などが総合して起こると思われます。
 なお、緑色片岩と泥質片岩では河床勾配が異なり、緑色片岩の方が緩くなっています。峡谷部分では、一般に硬い岩ほど緩い勾配の縦断形になる・・・幅の広いナメ状の岩床河床を作る。泥質片岩のような弱い岩石が急な勾配の縦断形になるのは、礫で覆われた河原や、岩が出ていても、河床に溝がある凹凸の多い河床になるからではと思います。
 3.遷急点の移動      ページのはじめに戻る

 図2〜4から、現在不動滝となっている、V期谷の遷急点移動経緯を考察してみます。
 V期の谷が下刻をはじめ、遷急点が下流側から、泥質片岩や緑色片岩を削って、上流に移動してきて、始めて石英片岩が出てきてその地点で侵食が遅くなって、移動が止まりここで止まっているのだと思います。 
 滝を最上流とする遷急区間の侵食後退量は、阿武隈山地境より約2000m。
 また、現在は、V期の谷から更に、W期の谷が掘り込まれていて、その遷急点は、不動滝の下流側の緑色片岩と泥質片岩の境付近に形成されています。
 4.滝の最近の変動      ページのはじめに戻る
 以下は、滝下に降りて観察できませんでしたので、あくまで、上から覗いた予想ですが・・・。

図5.不動滝の微地形

 図5に示すように、この滝は、急傾斜の幟瀑で、滝の上流下流には他の滝がなく、単一の滝です。
 滝面は、主滝と副滝からなる複合滝面で、副滝は直線溝状で、浅い部分滝壺があります。
 主滝の下には、滝壺がありません。
 主滝副滝の岩石は、未確認ですが、地質図から読図すると石英片岩と思われます。
 滝面の形は、河道に直交・平行する断層面や割れ目を掘り出す形で形成されています。
 滝の下流の緑色片岩部分の河道平面形は、直線で、石英片岩の主滝の直下になると直角に曲がり、鍵の手になっています。主滝の滝面と鍵の手に曲がった河道の平面形は平行で、石英片岩層の断層面を掘り出したものと思われます。
 遷急点において弱線沿いに河道を掘り込む結果、曲流が起こることが多い、その一例でしょうね。
 <考察>
 不動滝の形態は、直立する石英片岩層の断層面に沿って下刻して掘り出した形です。
石英片岩層の中には副滝の形で水平方向に掘っていますが、大して掘れていませんね。
 下流に、滝下広場跡などの滝の旧地形がなく、不動滝は、移動してきた滝ではなく、この地点で石英片岩層の断層面が掘り出されたものと思われます。つまり、滝の形成そのものはつい最近で、地質条件に対応した一時的な滝の形成であると思われます。最近に形成されたものと思われますが、年代は不明。後退量はたかだか20m程度。
 参考文献      ページのはじめに戻る
参考論文
・大森昌衛・蜂須紀夫編著 1979 15 日立鉱山 「日曜の地学8 茨城の地質をめぐって」築地書館 200p p86-89
・大山年次監修 蜂須紀夫 1977 8.日立周辺 「茨城県地学のガイド」コロナ社 299p p104-110
・小池一之ほか編(2005)浜通り海岸および常磐海岸の段丘地形 「日本の地形3 東北」東京大学出版会 355p p74-76
・早川唯弘・三島正資(1997) 茨城県多賀山地の侵食小起伏面と崩壊の分布. 茨城大学教育学部紀要(自然科学)46号(1997).1-19
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