高橋・橋本氏作成 観察会現地説明資料 070625 アップ。WP掲載に伴い、体裁を変更しました。 工事人:滝おやじ   竪破山観察会記録目次へ


 講師のご了解を得て、資料の文章を掲載します。 文中に引用されている図については、縮小画像と引用元を示しましたので、もとの文献を参照してください。
 
地学科の資料は、伝統で、後々使える詳細・大容量なものが多いのですが、これもそうですね。入手しておけば、阿武隈山地南部の地質について役に立つのでは
  ・・・・・・問い合わせ先:千葉県立中央博物館地学研究科: 043-265-3879

2007年度 千葉県立中央博物館・友の会連携事業
平成19年度 県外岩石観察会

ー茨城県北部の太刀割石ー 資料

2007年5月19日(土)

 
高橋直樹氏提供
      講師 高橋直樹 千葉県立中央博物館地学研究科
案内 萩原 孝  千葉県立中央博物館友の会   
案内 橋本 昇  千葉県立中央博物館友の会
〔本日の日程〕
 7:30  J R千葉駅前(NTTビル前)出発
 7:30〜11:00  移動             
   (途中でマサ化した花崗岩体を観察)
 11:00〜14:30  太刀割石(日立市堅破山周辺)の観察
   (山中で昼食)
 14:30〜15:00 移動
 15:00〜15:30 蛇紋岩の観察(常陸太田市町崖町)
 15:30〜19:00 移動
     19:00  JR千葉駅前(NTTビル前)解散
 ※道路の混雑状況等により、時間が変わる可能性があります
      
注意事項
・バスで移動しますので、出発時間には遅れないようにしてください。
・観察地(特に竪破山周辺)はハイキングコースであり、また神社もありま
 すので、標本の採集は控えてください。
・採石場では落石に十分に注意し、崖にあまり近づかないでください。
・ハンマーを使用する際は、すぐ近くに人がいないか確かめてください。
・体調が悪化した場合は、無理をせず案内者に申し出てください。
・ごみは必ず持ち帰りください。

 滝おやじ注: フッフッフ。 眼光紙背に徹する方にはお分かりと思いますが、この資料のp2とp3が、採録されていません。しかし、これは、もともと資料に無いからです。作るつもりだったが時間切れになったとか、両面印刷を間違えたとか 
  ・・・・こうゆうことは、よくあることですので、あるがままに受け取って、深く考えないようにしましょう。


 p4とp5です。 (高橋) (橋本)は、執筆者  文章中の太字強調と、改行の追加は、滝おやじがやりました。

◎阿武隈山地の地形・地質

■阿武隈山地の全体像
 阿武隈山地は福島県の東端に主体をもつ山地です。手始めに高校の社会科地図帳(1998年版)によって阿武隈山地を見てみましょう。

・阿武隈山地の輪郭

 東京から東北新幹線で北上すると,福島県郡山駅の手前から右手に,独立峰からなり山脈をつくらないなだらかな山々が現れます。左側に壁のように続いている奥羽山脈の山々とは様相が異なります。これが阿武隈山地です。
 郡山市は阿武隈山地の西端に位置します。郡山駅をさらに北上し,福島駅から阿武隈急行鉄道に乗り換えて北東に進むと宮城県丸森町に至ります。ここが阿武隈山地の北端です。ここから南東に,国道113号線で福島県の相馬中村市に出ると太平洋にぶつかります。海岸線に沿ってJR常磐線か国道4号線で南下します。いわき市を過ぎて茨城県に入り,日立市の南,久慈川にぶつかるところで阿武隈山地は終わります。

 次は阿武隈山地西側の境界を見てみましょう。新幹線郡山駅からJR水郡線で南下し,阿武隈川とその支流(社川)に沿って棚倉町まで来ます。棚倉町からは久慈川に沿って矢祭町に至り,ここから国道349号線に沿って南下します。茨城県に入ると国道と平行して里川が流れています。この国道349号線と里川が阿武隈山地の西端にあたります。
 なお,久慈川と水郡線は矢祭町から南西に向きを変え,茨城県大子町から里川と平行して南南西に流れます。このあたりでは,里川久慈川の間に山田川も流れ,3つの川が並行します。里川と山田川は常陸太田市で久慈川に合流し,太平洋に流れ込みます。

 以上をまとめてみると,阿武隈山地は南北に延びる紡錘形をした一帯で,茨城県常陸太田市あるいは久慈川河口付近から北に広がって福島県を貫き,宮城県丸森町付近で集束します。西は阿武隈川,南西は久慈川-里川,東は太平洋に限られ,東西に最大約50km南北約150kmにわたっています。

・山と川の姿  
 南からたどってみると,高鈴山(623m),竪破山(658m),妙見山(653m),花園山(798m)など,1,000mに満たない山々が独立峰として連なりますが,総体は600〜800mほどの低い山々からなっています。山々の形は,全般的に鋭い尾根は少なく丸みを帯び,谷は浅く幅が広いです。独立峰を除けば,山々の比高も規模も小さく,高原状になっています。そのため,阿武隈山地は「阿武隈高原」とか「阿武隈高地」と呼ばれることもあります。ちなみに,1,000mを超す山は,最高峰の大滝根山(1,192m)と北方の日山(1,057m)だけです。

 川の流れを見てみると,阿武隈山地の西側は阿武隈川の支流で,流れの方向に大きな傾向は見られませんが,東側では北部で東流,中南部で南東流が多いように思われます。しかし,最も明瞭な傾向は,阿武隈山地の南西部の流れです。里川,山田川,久慈川が平行して直線状の流れをつくっています。里川を上流に延長すると,矢祭町以北の久慈川と合致します。つまり直線上の流れがここにはあるのです。

高校の社会科地図帳(1998年版)だったのですが、
これは、滝おやじの作った概念図で差し替えました。

 p6とp7・p9 です。

■地図閲覧ソフト『カシミール』でみる阿武隈山地の地形

 インターネットで閲覧のできる地図ソフト『カシミール3D』によると,地図帳では分からなかった阿武隈山地の特徴が鮮やかに浮き出してきます。
 右図は,25mごとの等高線による,猪苗代湖を中心にした白地図を縮小して表示したものです。縮小の度合いが強いため,等高線間隔の大小は灰色の濃淡に変換されています。白い部分は比高25m以下の平坦な土地であり,暗色が強くなるほど地形の急な部分を示すことになります。つまり,白い部分は平野・盆地・河川,薄いところはなだらかな丘陵地,濃い部分は険しい山や谷壁を表わしていると見なすことができます。

・地形の特徴
 西側の奥羽山脈やさらに西方の山地と比べると,阿武隈山地は全般的に暗色の度が低いです。すなわち全般的になだらかな山地といえます。地形の浸食輪廻の考えでいえば,隆起準平原とされています(準平原とは浸食作用の末期に相当し,起伏が小さく海面に近い高さを示す地形の用語ですが,阿武隈山地は600〜800mもあるうえ,新たな侵食を再開したと考えられる峡谷・急流が山地の縁辺近くにあることから,阿武隈山地は準平原化してから隆起した「隆起準平原」と考えられています)。


・なだらかな山地の急傾斜部

 そうしたなだらかな阿武隈山地の中で,これとは別な傾向が3点ほど認められます。
 1つ目は,阿武隈山地の東部に暗色の強いところが帯状に分布することです。この直線状の境界には2つの断層「畑川断層」・「双葉断層」があります。畑川断層以東は高原状の地形と違って起伏の多い地形になっています。さらに双葉断層以東は土地が急に低くなり,丘陵状になっています。断層の両側で地形の様相が変わる典型でしょう。

 2つ目は,大滝根山周辺,特に西方と北方に黒っぽい部分が斑状に分布することです。これはやや高い山が散在していることを意味します。高いところは独立峰で,まわりの岩石が浸食されたために取り残された残丘です。残丘の多くは斑れい岩などの風化浸食に強い岩石からなる山体で,まわりの風化浸食の進んだ岩石は花崗岩です。なお,残丘のまわりには採石場が多いようです。

 3つ目は太平洋に注ぐ河川の谷壁が中流域で急峻になっていることです。準平原と呼べるほどに平坦化した土地が隆起したため,標高差の大きいところで浸食が急激になり,谷壁の急斜面化が進行しつつあると考えられます。


・河川の流路に表われた棚倉構造帯

 右図で白地の部分つまり平地かそれに近い土地をみてください。これは平野・盆地・河川などの起伏のほとんどない土地に相当します。これで水系を見ることもできます。
 阿武隈山地の西側には奥羽山脈との間に阿武隈川が流れています。阿武隈川に沿っては郡山盆地・福島盆地・角田盆地が並んでいます。阿武隈川の水系をJR水郡線に沿って上流にたどると,源流は奥羽山脈那須山塊に向かいますが,支流(社川)は棚倉町の北で西に湾曲して,八溝山の北山麓にたどりつきます。この湾曲した凹凸の少ない部分は非常に幅が広くなっています。
 社川の湾曲部を南に乗り越すと,土地は急に南側に傾斜し,深い谷を水が流れ始めます。これが久慈川の源流です。久慈川はほぼ南南東に直線的に延びていきます。直線状の谷には大きな断層帯があり,「棚倉断層」とか「棚倉構造帯」と呼ばれています。
 ただし,久慈川は矢祭町で西の方に向きを変え,蛇行しながらもほぼ構造帯に平行して南流します。ここに3つの川が並行することは前述しましたが,棚倉-矢祭間の久慈川をそのまま南方に延長すると山田川に合致し,断層がここに続いていることを強く示唆します。

 久慈川源流の棚倉町には,久慈川の東にもう1本,直線的な平地が走っています。これを南方に延長すると里川に合致します。ここにも断層があります。棚倉町から常陸太田市付近にかけて,2本の断層が並行するのが図から見て取れます。2本の断層はそれぞれ「棚倉構造帯東縁断層」・「棚倉構造帯西縁断層」と呼ばれます。なお,久慈川本流が矢祭町から構造帯の断層を離れて流れる理由ははっきりしません。
 ところで,後述しますが,2本の断層の間は岩石が著しく破砕されています。そこで棚倉構造帯を「棚倉破砕帯」と呼ぶことも一般に行われています。

 (橋本)


 

p8、p10、11、12、13、14です。

◎阿武隈山地の地質
阿武隈山地の地質図



地質調査所(1989)100万分の1日本地質図.より

 阿武隈山地の地質構造を見ると,南西に棚倉構造帯(断層),北東側に畑川断層・双葉断層という2つの大きな断層があり,断層と断層の間がほぼ同一の地質区に属します。これを,「阿武隈帯」と呼びます。これらは,主として日本列島(東北日本)の基盤(土台)をなす地質体(先新第三系)の一つです。

 阿武隈山地の主部を占めるのは中・北部の花崗岩類と南部の変成岩類です。阿武隈山地の多くの場所では花崗岩類が広く覆い,斑糲岩が点在しています。前述した残丘の多くはこの斑糲岩類です。
 東部の畑川断層・双葉断層に沿っては花崗岩類のほかに一部で中〜古生界その変成岩類(松ヶ平・母体変成岩類)が露出しています。南部には御斎所・竹貫変成岩類があり,最南端に古生界とその変成岩(日立変成岩類)が露出しています。
 なお,部分的ですが,これらの東の端に点々と,古第三紀の地層が存在し,石炭がかつて採掘されていました。また,最高峰大滝根山の周辺にも狭い古生層とその変成岩の分布があります。
 以下,阿武隈帯の主な分布域である阿武隈山地の地質を詳しく見ていきます。

■地質図による阿武隈山地

 地質図は同じ種類・時代の岩石や一連の地層の分布を色分けと記号で表したものです。
阿武隈山地を中心にした地質図を見てみましょう。

 阿武隈山地は南端の久慈川河口付近から阿武隈川の下流域まで延びる紡錘形をしていますが,その北部3分の2は赤色系で表わされた花崗岩類がほとんどを占め,南部3分の1は花崗岩類のほかに変成岩類(オレンジ色)の広い分布があります。この広大な山地には紫や緑の系統色で表わされた斑れい岩・かんらん岩・古生代の堆積岩などの小岩体が散在しています。大滝根山周辺ではこれらが残丘になっています。

 また,阿武隈山地を縁取るように,黄色の系統色が取り巻いています。まず福島市の東方や霊山町新第三紀中新世の安山岩・玄武岩,双葉断層の東側,いわき市から日立市にかけての地域,そして常陸太田市から棚倉町の北方までの棚倉構造帯とその西方に第三紀層が分布しています。
 中新世の安山岩・玄武岩はかつて花崗岩類を貫いて噴出した溶岩で,霊山などの特異な景観をつくっています。むろん現在の火山とは無関係です。
 第三紀層のうち地質図でN1と表わされたものは古第三紀の堆積物で,数枚の厚い石炭層を挟んでいて,かつて採掘されていました。
 なお,郡山−福島間に安山岩の分布がありますが,奥羽山脈の安達太郎火山の噴出物が阿武隈山地に達したもので,阿武隈山地の地質とは無関係です。

 大きな断層を見てみましょう。棚倉構造帯の平行する2本の断層は地質図にも描かれています。これらは棚倉町の北方で1つになり,猪苗代湖の東をとおってさらに北に延びています。この断層の東側には花崗岩を伴いますが,西側にはまったく花崗岩が見られません。
 阿武隈山地の東部にある畑川断層はその両側とも花崗岩類ですが,断層に沿って古生層や変成岩・かんらん岩などが露出しています。一方,双葉断層は明確に花崗岩類を切って東側に第三紀層を堆積させています。この断層にも中生層や変成岩が伴っています。なお,変成岩類の真ん中を通って郡山周辺に達する断層は,その西側と東側で変成岩の性質が異なることから,変成環境・変成過程・その後の変成岩体の動きに差異があると考えられています。これについては,変成岩の項で詳しく述べることにします。

 以上4つの断層は,ともに北北西に延びるのに対して,これらと斜交して北西方向に延びる比較的短い断層があります。いわき市周辺です。ここでは断層に伴って石炭層を挟在する古第三紀層が現われています。

 阿武隈山地南端の日立市と常陸太田市に挟まれた三角形をした一帯は,日立変成岩の分布域です。日立変成岩類は,阿武隈山地南部に広く分布する変成岩(御斎所・竹貫変成岩類)とは岩相が異なります。また,鉄鉱床を含んでいて,最近まで大規模な採掘が行われていました。

 阿武隈山地内の大きな鉱山と鉱産物をあげれば,旧日立鉱山(含銅硫化鉄鉱),旧常磐炭田(石炭),八茎鉱山(タングステン鉱石),大滝根山・日立等の採石場(石灰岩),石川町周辺のペグマタイト採石場(花崗岩ペグマタイト),大滝根山周辺の採石場(斑れい岩,花崗岩類)などがあります。

■地質層序表でみる阿武隈山地の生い立ち

 阿武隈山地各地の岩石や地層の重なり方,含まれている化石,岩石の形成された年代,それらの形成された順序などを総合して書き表した表が,地質層序表です。
 層序表には地質図と同じ色分けと記号で地層や岩石区分を示し,時代順に古い方から積み上げてあります。2列ある区分のうち左側は地層,右側は岩石が配置されています。これを阿武隈山地と周辺に限定して読み取ってみましょう。
 なお,使用した地質図・地質層序表は,地質調査所発行『100万分の1地質図』(1989年刊)から,阿武隈山地周辺を切り出し,凡例も関係あるものだけ採録したものです。層序表の番号は以下の説明と合わせてあります。

・この地質図で阿武隈山地に残っている最も古いものは日立市の西方にある[C1(緑褐色):泥岩・玄武岩・安山岩・石灰岩]で,石炭紀前期に堆積したものと読めます。これは旧日立鉱山のあるところで,常磐自動車道那珂インター付近から望見できる採石場の周辺です。ここの岩石は変成作用を受けて日立変成岩とも呼ばれていますが,原岩に含まれているサンゴ化石などから石炭紀前期の地層と判断されたものです。その西に小さく[m3]となっている2つの岩体は,この岩石よりさらに変成度の上がったものと考えられていますが,別系統の変成岩と主張する意見もあります(いわゆる「西堂平変成岩」)。これらは,かんらん岩を伴っています。

・次に古いものは[P(青色):石灰岩]と[P(灰色):泥岩・砂岩・玄武岩・チャート・石灰岩および礫岩]でしょう。日立,大滝根山やその北方に点在し,畑川断層と双葉断層の間に広い分布があります。両断層に沿っても露出しています。古生代二畳紀(ペルム紀)とされます。ただし,相馬地域の岩石からは腕足類,サンゴ,フズリナも産出しています。南部北上帯の地質と共通性があるといわれます。

・古生代から中生代前期とされる時期に,[ s:超苦鉄質岩類(かんらん岩)]や[ d3:斑れい岩]が貫入しました。この岩石は日立,畑川断層沿いのほか,膨大な阿武隈山地花崗岩体にも散在していますが,花崗岩はむしろその後の中生代白亜紀に貫入したものですので,それよりだいぶ前に,塩基性のマグマ活動があったことになります。

中生代ジュラ紀の[ J:砂岩・泥岩・礫岩(ところにより石灰岩も)]が双葉断層に沿う相馬地方に露出しています。トリゴニア・アンモナイト・二枚貝・サンゴなどの化石が産出し,この化石群も岩相と同様に南部北上帯のそれに似ているということです。

・中生代の白亜紀前期になって,阿武隈山地の大部分を覆っている[ g3:花崗岩類(阿武隈型とされるもの)]が大量に貫入しました。マグマ溜りがいくつもあり,それが総体として巨大な岩体になったものだと考えられます。同時代の岩石で,斑れい岩・閃緑岩も貫入していますが,どちらが先かは地質図にも層序表にも示されていません。花崗岩中に新たな塩基性マグマが貫入したとも考えられますし,先にできていた斑れい岩・閃緑岩を取り込んで花崗岩質マグマが上昇してきたとも考えられます。なお,同じ時代の[g4 古領家深成岩]とは,筑波山や山形県朝日岳・飯豊山などの花崗岩です。

白亜紀後期になると,畑川断層・双葉断層の間の双葉地方に[ K2:砂岩・泥岩・礫岩]が堆積しました。アンモナイト・イノセラムス・トリゴニア・フタバスズキリュウなど海生生物の化石が多産します。

・時代が新生代に入ってしばらくたった古第三紀漸新世いわき市周辺と茨城県高萩市周辺に[PG3:砂岩・泥岩・礫岩]が堆積しました。この地層にはメタセコイアなどの植物化石が多く含まれますが,地層を細かく見ると陸上植物から海生植物への変化が何度も繰り返されるということです。この過程で,大量の植物が沼地のようなところに積み重なり,のちにこれが石炭に変化していったのでしょう(かつて常磐炭田で採掘された:PG3)。

中新世に入ると火山活動が盛んになり,[N1:砂岩・泥岩・礫岩・凝灰岩]の地層が各地に堆積していきました。たとえば棚倉構造帯の内部と西側つまり八溝山地との間,いわき市周辺,畑川−双葉断層間の地域などです。棚倉構造帯では阿武隈・八溝両山地から大量の土砂が供給され,はじめに礫や砂などの陸上堆積があり,のちに浅海成の貝化石が含まれるようになりました。海が入ってきたのです。
 中新世後半にも火山活動の傾向は続き,双葉断層の東側,いわき市から水戸市付近までの低地,棚倉周辺,郡山盆地などに,[N2:凝灰岩を挟在する泥岩・砂岩・礫岩・凝灰岩]が広く堆積しました。

鮮新世には同じ傾向が引き続き,棚倉構造帯南部の常陸太田市と北部の棚倉町東北部(構造帯の外側),郡山盆地などで局地的に地層の堆積が起こりました[N3]。棚倉町や郡山盆地で堆積したのは湖成層です。この時代にはすでに,棚倉構造帯が陸化していたことになります。

鮮新世から第四紀に入ったころにかけて,現在の猪苗代湖の南方で広くデイサイト・流紋岩の火山活動が起こりました[rN]。これは複数のカルデラから大量の火砕流が噴出したもので,一部では白河火砕流などと呼ばれています。噴出物の一部は阿武隈山地に達しています。

更新世後期に,郡山盆地・福島盆地・阿武隈山地南方の台地,那須岳から南にゆるく傾斜する現在の鬼怒川低地(台地)などに地層が広く堆積しました[Q2](千葉県では,この時代の堆積物が,数万年前に隆起して北総地方に広く分布する台地になりました)。

那須岳・磐梯山・安達太郎山ほかの多くの火山が更新世後期から活動し[ap],今日にいたっています。

・最終氷期が終わった完新世になって,各地の盆地,低地に陸成層の新しい堆積が引き続いて起こり[H],今日にいたっています。


p14,15,16,17 です。

■阿武隈山地の地質に関する問題点

茅原一也・卯田 強(1982)棚倉構造線北方延長の問題
−特に日本国片麻岩・朝日山地片状〜片麻状花崗岩類に関して.
月刊地球,4(3):181-193.
より
Takagi,H. and Arai,H (2003) Restoration of exotic terranes along
the Median Tectonic Line, Japanese Islands : oberview.
Gondowana Research, 6: 657-668.
 より
 地質図と層序表をもとにして,阿武隈山地の生い立ちの概略を書いてみましたが,全般的に見て大きな問題点がいくつかあります。
 ・変成岩類はいつ,どこで,どのようにしてつくられたのか
 変成岩類には御斎所・竹貫変成岩,日立変成岩,西堂平変成岩,畑川・双葉断層に伴う変成岩などいくつかの種類がある。
 ・大きな断層はいつごろできたのか
 棚倉構造帯の断層,畑川断層,双葉断層,いわき市周辺の北西向きの断層,そして御斎所竹貫変成岩を切る断層など。 
 ・阿武隈帯の北方延長問題

・変成岩類はいつ,どこで,どのようにしてつくられたのか

 層序表に変成岩類がまとめられています。阿武隈山地に関わりの深いのは次の2つです。阿武隈(御斎所−竹貫)変成岩(m3),そして母体・山上・松ヶ平・八茎……変成岩(m2)です。変成作用の古い方から考えてみます。
(A) 母体・山上・松ヶ平・八茎……変成岩
 阿武隈山地にある地名は山上・松ヶ平・八茎で,母体は南部北上の地名です。それを地質図・層序表では一連の変成岩としています。層序表から次のように読み取れます。
 古生代中期またはそれ以前に堆積した岩石が,中生代中期またはそれ以前に高圧型の変成作用を受けます。高圧型とは,岩石が地下20〜30 km以上の深さまで持ち込まれて,岩石の粒子はしだいに分解し,高圧で安定な結晶構造(新しい鉱物)に変わっていくタイプの変成作用です。その結果,鉱物の結晶は見えないが方向性があり,たたくと板状に割れるような岩石(結晶片岩)に変わっていきます。変成作用が行われたあと,逆断層運動によって一部が地上に現われるといいいます。この場合,変成岩は畑川断層や双葉断層に沿って露出していることから,これらの断層運動に伴って絞り上げられたと考えることもできるでしょう。
(B) 御斎所・竹貫変成岩
 
地質図・層序表とも同一の岩石として取り扱っていますが,実際には御斎所変成岩・竹貫変成岩という,やや性質の異なる2つの変成岩が,北北西に延びる断層を境にして隣接しています。
 原岩は中生代後期までにつくられた堆積岩です(御斎所変成岩中にジュラ紀の放散虫化石が見つかっています)。竹貫変成岩は,低圧型ということで,深さ10km程度の比較的浅い場所で変成され,結晶粒が大きく縞模様の発達した片麻岩になったものでしょう。おそらく大量の花崗岩の貫入による熱の作用も大きく受けて,結晶粒が粗く肉眼で見えるほどの変成岩(片麻岩)になったと考えられます。一部中圧とされるのは,20 km程度の深さでやや高い圧力を受けて結晶片岩になった御斎所変成岩をさしているものと思われます。日立変成岩も地質図・層序では御斎所・竹貫変成岩に含めています。古生代の地層が変成作用を受けて結晶片岩(一部片麻岩)になっています。
 地下深部にあったはずの岩石がどのようにして地上に現われたかはよく分かっていません。海洋プレートの沈み込みによって押し込められた堆積物や岩石は,強い圧縮力を受けて固結し,逆断層を生じて上部の岩体を押し上げたり,くさび状にもぐり込まれて上方に押し上げられたりします。やがて,圧縮力に加えて内部の熱を受けて変成岩に変わっていきます。そのまま深部にもちこまれた場合は高い圧力のもとで結晶片岩のような岩石に,あまりもぐり込まずに大陸側に押しつけられたものはむしろ熱の作用を受けて片麻岩などに変わっていきます。場合によっては融解してマグマになります。そうした過程を経ながら,海洋プレートの物質が一部はマントルにもどり,一部は大陸の下に新しくつけ加わって地表を押し上げ,大陸の領域を増やしていきます。
 地表に押し上げられてきた岩石は,破断されていろいろな岩石の混じった状態になっています(メランジュ)。また,激しい風化作用によって岩石の表面が細かく破壊され,粘土化されながら,流水によって浸食を受けます。地表が浸食によって平坦化されても,プレートの沈み込は続いていますので,すぐに隆起に転じることはありえます。このような過程を通じて,地下深部にあった岩石が地上に現われるのかもしれません。
 なお,A,Bともに,変成作用を受けた時代は,まだ日本列島が弧状列島にはならずに中国大陸の一部の状態であったといわれます(日本列島の生い立ちの項参照)。

・大きな断層はいつごろできたのか

 比較的よく研究されている棚倉構造帯の場合を見てみましょう。
 棚倉構造帯は並行する2本の主断層で特徴づけられますが,この断層の内側にある阿武隈型の岩石も八溝型の岩石も,著しく破砕されています(マイロナイト化)白亜紀に阿武隈山地の花崗岩が大量に貫入して間もなく,断層運動が行われるようになったと考えられています。運動は新第三紀中新世ころまで続き,現在は動いていないようです。活断層研究会(1991)では,それらの一部が活断層の疑いのあるリニアメント活動度Vとされている程度で,政府の活断層調査の対象としては取り上げられていません。
 畑川断層・双葉断層はどうでしょうか。この断層の主な活動時期は1億年前から9000万年前までの,マイロナイトを形成した時期だということです(新版地学事典)。双葉断層には,やはりマイロナイトを伴っています。白亜紀中期に横ずれを起こし,現在も活動が続いています。活断層研究会(1991)でも,ほぼ全域で確実度Tの活断層とされています。
 御斎所・竹貫変成岩を切る断層。これは御斎所変成岩と竹貫変成岩の間にある断層で,御斎所変成岩を覆うように竹貫変成岩が動いてきた断層ではないかと考えられているようです。

・阿武隈帯の北方延長問題

 阿武隈帯ひいては棚倉構造帯はどこまで続いているのでしょうか。
 棚倉町から郡山盆地の南西部を貫き,猪苗代湖の東部,米沢盆地の南西部を通って,北に延びる直線上の谷につながっていくと考えられています。たとえば米沢盆地の北西部(山形県長井市)では,西と東の花崗岩類の性質が異なることが指摘されています。東側が阿武隈型,西側が足尾型(領家型)です。付近にマイロナイトも存在します。一方,米沢盆地から雁行配列をして,北西の新潟−山形県境(山北町日本国)のあたりに続くという考え方もあります。こちらにもマイロナイトが現れています。
(橋本)


,
P18,19,20,21,22、25 です。

◎阿武隈花崗岩

諏訪兼位・蟹沢聡史・高橋正樹(1989)かこう岩.
日本の火成岩,岩波書店:139-173. 
より
丸山孝彦(1979)南部阿武隈高原の花崗岩類のRb-Sr同位体
年代論.日本列島の基盤,加納 博教授記念論文集:523-558.
 太刀割石が存在する竪破山は,いわゆる「阿武隈花崗岩類」から構成されます。それらが形成されたのは主に中生代白亜紀前期です。
 阿武隈花崗岩類はさらにいくつかの岩体に区分されており,竪破山はそのなかの「鳥曾根(とりぞね)岩体」(語源:高萩市鳥曾根)に所属しています。
 また,竪破山は鳥曾根岩体のほぼ南西縁付近に位置しており,今回の行程で竪破山にたどりつくまでのルート沿いは,おおむね竪破山とは異なる「入四間(いりしけん)岩体」(語源:日立市入四間町)で構成されます。入四間岩体のほうが古く,鳥曾根岩体のほうがあとから貫入したと考えられています(阿武隈花崗岩類の中で最も新しい)(丸山,1979)。
 全岩Rb-Sr年代では,入四間岩体は約160Ma,鳥曾根岩体は約110Maの値が得られていますが(丸山,1979),入四間岩体については角閃石のK-Ar年代で約100Maが得られており(柴田・内海,1983),全岩Rb-Sr年代とだいぶ異なります。
 入四間岩体が角閃石の自形結晶が目立つ粗粒の角閃石黒雲母花崗閃緑岩で構成されているのに対して,鳥曾根岩体は,細粒で角閃石をほとんど含まない黒雲母花崗閃緑岩〜花崗岩で構成されています。この違いは,岩体の風化過程や,それに起因する地形にも大きな影響を与えていると見られます。
 入四間花崗岩には暗色包有物(特に有色鉱物が集合したもの)が多く含まれているのも特徴的です。

[竪破山の黒雲母花崗岩]

 主に石英,斜長石,カリ長石,黒雲母からなります。普通角閃石はほとんど含みません。顕微鏡下では,黒雲母及び斜長石が自形に近く,初期に晶出したことがわかります。石英も比較的自形性が高いです。一方,カリ長石は,他の鉱物(斜長石や黒雲母)を内部に取り込んで大きく成長していることが多く,最も遅れて晶出したと考えられます。
丸山孝彦(1979)南部阿武隈高原の花崗岩類のRb-Sr同位体
年代論.日本列島の基盤,加納 博教授記念論文集:523-558
より
 副成分鉱物として,ジルコンを含みます。




・白亜紀のふしぎ

 花崗岩は日本列島の歴史の中で,いつも形成されていたわけではなく,特定の時代に集中しています。そして,その多くが,中生代白亜紀に形成されています。この阿武隈花崗岩をはじめ,領家花崗岩,中国帯などもそうです。

 白亜紀は実は,全地球的規模で異常であった時代です。地球の磁極が数十万年ごとに逆転することがよく知られているが,白亜紀の数千万年の間,地磁気が全く逆転しなかったのです。また,南太平洋のオントンジャワ海台など,大量のマグマが地表(海底)に噴出した時代でもあります。日本列島の花崗岩も,そのような地球的規模の内部の高温化の一旦で形成されたものかもしれません。

 ちなみに,千葉県銚子市に中生代白亜紀の地層である「銚子層群」が存在しますが,銚子では中生代の地層はこの時代のものしか存在しません。その前も後も,しばらく地層がない時代が続くのです。これはなんとも不思議です。この理由は定かではありませんが,1つは海洋域での海台の形成による大規模な海水面の上昇が考えられます。また,地質的には,銚子層群の所属する「黒瀬川構造帯」の構造的な陥没(地溝)の形成などもあるかもしれません。
(高橋) 


p22、23、24,26,27,28 です。


◎太刀割石(花崗岩の風化過程)

・太刀割石(たちわりいし)とは?

 本日の観察のメインである太刀割石は,茨城県北部の日立市(旧十王町)と高萩市との市境にある標高658.3mの竪破山(たつわれさん)の山頂付近に存在します。

 太刀割石は,直径7mもある半球状の花崗岩の岩塊(すぐそばに,球の残り半分も存在する)で,八幡太郎源義家が寛治元年(1080年)に奥州遠征の途中に山頂にある黒崎神社に戦勝祈願をした際に,夢に現れた神に授けられた太刀を大岩に振り下ろすと,真っ二つに割れたという故事が起源となっているようです(Wikipedia「竪破山」より)。
 
その故事にちなんで,江戸時代に,あの有名な水戸光圀公がその岩を「太刀割石」と名付けた,と言われています(同)。

 ふもとから,山頂までの登山道沿いには,太刀割石のほか,「不動石」,「烏帽子石」,「手形石」,「畳石」,「甲石」,「舟石」,「神楽石」など,少しずつ形が異なる岩塊が存在し,それぞれ名前をつけられています。 

池田 碩(1998)花崗岩地形の世界.古今書院:206p より
・太刀割石誕生のなぞ

 太刀割石の成因には,大きく2つの要因が関係していると考えられます。
 太刀割石は,半球状の丸みを帯びた面とまっすぐな平面の2つからなっていますが,その2つの面がそれぞれ異なる作用でできたと考えられるわけです。その作用のうち,1つが「節理」,もう1つが「風化」です。

 花崗岩体は,通常大規模な岩体(バソリスなど)を形成しますが,このような岩体に力が加わると,岩体に割れ目(節理)が形成されます。
 花崗岩には,よく2方向(縦と横)の節理が入り,岩石が方状(四角状)に割れることが知られています(通常は1方向の節理が多く,板状に割れることが多い)。節理は一般に平らな平面をなすことから,太刀割石を構成する平面は,この節理が元になっていると見られます。

 一方,花崗岩は構成する鉱物の粒子が粗いため,風化に弱いと言われます。
構成する数種類の鉱物の熱膨張率が異なるため,寒暖の差により粒子間の結合が次第に弱くなって,粒子がぼろぼろとはずれやすくなるのです。このような風化は,地表に露出した面で最も進みますが,地表近くの地中でも前述の節理に沿って進行します。節理によって形成された四角いブロックが外側から徐々に風化していった結果,ブロックの芯の部分が球状に残る場合があり,それを「コアストーン」と呼んでいます。また,その球の表面が薄皮が剥がれるような状態になることが多いことから,「玉ねぎ状風化」と呼ばれる場合もあります。太刀割石の球状の面は,このような風化作用によって形成されたと考えられます。

 ただし,通常の玉ねぎ状風化は,その芯の部分には節理(割れ目)がないのが普通です。節理があれば,そこから風化が進んでしまうからです。ですから,太刀割石のように半球状にきれいに割れるというのは,実に不思議なのです。ある程度玉ねぎ風化が進んだのちに節理が形成されたのか,節理はあったもののの,風化の際には影響を与えなかったのか(節理にも規模の大小があり,大きい節理に沿って風化が進んだのか)などが考えられます。太刀割石以外の他の奇岩も,同様な成因をもつと思われますが,どちらかというと節理の影響が強い(玉ねぎ風化の影響が少ない)岩が多いようです。
(高橋)


p28,29 です。

◎町屋の蛇紋岩

 日立変成岩と西堂平変成岩の境界部に露出する蛇紋岩です。
 西堂平変成岩と日立変成岩の関係については,一連のものであるとか,前者が後者の基盤をなすなどの説があるようです。しかし,蛇紋岩はもともとは地下深部のマントル上部を構成するかんらん岩が変質した岩石であり,プレート境界などの大きな地殻構造境界に沿ってしか貫入しないのが一般的です。
 日立変成岩も西堂平変成岩も,現在は阿武隈帯の構成要素とされていますが,花崗岩貫入前にはもっと複雑な地殻の動きが存在した可能性があると思われます。

 ここの蛇紋岩は,暗緑色の基質中に淡緑色のきらきらした結晶の集合体が斑点状にちらばっている組織のものが目立ちます。暗緑色の部分は,かんらん石が変質した蛇紋石で,斑点状の部分は輝石が変質した透閃石(トレモライト)と推測されます。
 この岩石は,過去に石材として利用され,先ほど訪ねた竪破山山頂の黒崎神社でもこの岩石を利用した石像物がありました(無惨に砕かれていました)。

 やや南方に存在する長谷鉱山では,蛇紋岩が変質した滑石(タルク)を鉱石として採掘していました。農薬や殺虫剤の増量剤として使われていたとのことです。タルクは,鉱物の中で最もやわらかいものです(硬度1)。タルクの成因は,熱水による二酸化炭素の供給によると考えられています(豊・酒巻,1989)。なお,この中には,肉眼でも十分に認められるほどの八面体の磁鉄鉱の結晶が含まれています。

 町屋の蛇紋岩と長谷鉱山の蛇紋岩とは,地質状況がやや異なっており,同一のものかははっきりしません。町屋の蛇紋岩は,日立変成岩の西縁に日立変成岩の走向とほぼ平行に露出します。一方,長谷鉱山の蛇紋岩は日立変成岩と西堂平変成岩の境界に,西堂平変成岩の走向と平行で日立変成岩の走向を斜めに切るようにして露出します。

 [西堂平変成岩]
原 岩:古生代の砂岩・泥岩・石灰岩など(大陸棚,大陸斜面)
変成年代:中生代白亜紀−広域変成作用
       中生代白亜紀末−花崗岩・斑れい岩の貫入による接触変成作用

 [日立変成岩]
原 岩:古生代デボン紀〜石炭紀の島弧火山島の火山岩及びその周囲のサンゴ礁石灰岩(サン   ゴ,ウミユリなどの化石を含む),並びに,古生代ペルム紀の砂岩・泥岩(大陸斜面)
変成年代:中生代の中頃−圧砕花崗岩の貫入による接触変成作用
       中生代白亜紀前期−広域変成作用
       中生代白亜紀末−花崗岩の貫入による接触変成作用

 両者の原岩類がもともとどのような位置関係にあったかは不明です。   (高橋)


p30,31,32,33 です。

◎棚倉構造帯

左図: 大槻憲四郎(1975)棚倉破砕帯の地質構造.
東北大学理学部地質古生物学教室研究邦文報告.
76:1-70. より
右図: 高橋治之・天野一男(1989)棚倉地域.
日本の地質2 東北地方,共立出版:99-104 より.
 棚倉構造帯は,先に見たように,2列の並行する断層からなっています。この部分を2つの地質図で比べてみましょう。

 詳細な地質調査によって得られた棚倉から鍋足山付近までの図を使うことにします。地層名が少しずつ違い,模式地も異なる可能性がありますが,地層の分布も断層の位置もほとんど差異はありません。ただ地層の表現のしかたがだいぶ異なります。

■構造帯内部の断層

 2本の並行する断層は常陸太田市付近から北北西に延び,塙町からいくぶん西寄りに向きを変えます。2本の断層の間には細かい断層が走っていて,さまざまな岩石が存在します。
 構造帯内部の断層は右雁行配列(いわゆるミ型配列)をしています。このことは両側の主断層が左横ずれ運動をしていたことを表わします。
 これは断層の延びの方向に向かって立つと分かります。なぜなら,左横ずれ運動が起こると,2つの断層の間の土地は右前方と左後方に最大の引っ張り力が働き,引っ張りに直交して亀裂が入り,口が開いていくからです。その結果,2本の断層の間にはミ型の断層群ができます(もし右横ずれであれば,構造帯の中の断層は,いわゆる杉型配列になります)。

■構造帯内部の岩石

 構造帯内部の岩石がどこにあったのかを重点的に示したのが地質図Aです。
 当然,断層に接した東側のブロックは阿武隈山地であり,阿武隈型の花崗岩と変成岩(御斎所・竹貫変成岩)が存在します。地質図Aでは,阿武隈型を斜めの十字と横波線で表わしています。
 これに対して西縁断層の西側には八溝帯の花崗岩と堆積岩があり,正十字と斜め格子模様で表わしてあります。構造帯の内部の岩石にはそれらの記号を細かくしたような模様が着けられており,起源が解りやすくなっています。

 そうしてみると,構造帯内部には八溝帯起源の岩石も阿武隈起源の岩石もあって,右雁行しながら混在している。しかも内部の岩石は原岩と同じものではなく,どれも破砕岩とされています。

 「破砕岩」は,一般に再結晶をほとんど伴わない固結した断層岩とされます(新版地学事典)。断層運動によって岩石が破砕され角礫化〜粘土化した物質と考えられます。これに対して地質図Bでは「ミロナイト類」となっています。ミロナイト(マイロナイト)は断層の変形を伴って形成される断層岩のうち,地下深部で塑性流動を受けたものと説明されています。岩石中の鉱物が破断せずに再結晶を起こして多結晶化および細粒化するものでしょう。
 いずれにしても左横ずれ運動によって破壊されているものの,流動的にゆっくり変形して細粒化したものだといえるでしょう。

■構造帯の活動時期
 マイロナイトには阿武隈帯の変成岩・花崗岩,八溝帯の中生代堆積岩・花崗岩が含まれます。
 マイロナイト化作用があったことは断層が動いたと考えられますので,中生代には活動を開始していたと推測されます。
 マイロナイトの構造が左横ずれ運動を示すのは主に新第三紀中新世の地層です。また,構造帯内断層の右雁行配列も中新世の地層に表われています。したがって,中新世以前の活動も横ずれだったかどうかは判定できないという指摘もあります。

■棚倉構造帯周辺の新第三紀層
天野一男・高橋治之(1986)棚倉破砕帯周辺部.
日本の地質3 関東地方.共立出版:132-134. より

 棚倉構造帯の東縁断層の東側は阿武隈山地の中・古生代の岩石ですが,構造帯の内部から西側にかけては新第三紀層が分布しています。
 新第三紀層は場所によって岩相がかなり異なっているので,さまざまな地層名が付けられ,地層の分布は複雑になっているようです。しかし層序表から,2つの傾向を読み取ることができます。

・棚倉構造帯の堆積作用

 新第三紀層の堆積は1700万年前ごろから山方町大子町の間で始まりました。棚倉町の方には堆積が及んでいません。植物化石が含まれることから,陸上の広い河川か湖になっていたのでしょう。その後,巻貝や有孔虫化石が出現するので,海が入ってきたと考えられます(1600万年前)。
 一時は構造帯全域が海になり,1500万年前ごろを過ぎると海は退き陸化していきました。
 はじめに陸化したのは棚倉町の西方で,このころからそれまで堆積の場になっていなかった棚倉町東方(構造帯の東側)に海が残り,500万年前まで続きました。ただし,堆積物の上部には淡水性の生物の化石が産出することから,いつの時代か,淡水湖に変わっていったものと考えられます。

・構造帯の西と東の異なる動き
 前述の堆積作用の変化から,棚倉町の西側は隆起し,東側は沈降したと見なすことができるのではないでしょうか。
 断層は左横ずれしながらともに進行方向に沈むような動きがあったように思われます。
(橋本)


p34,36,37,40・・・・・35,38,39の図は省略します。

◎参考1…日本の地体構造区分

■日本列島を二分する構造線
 日本列島を大きく分けているのは糸魚川−静岡構造線です。ここはもともとフォッサマグナの西縁として地形的に明瞭な西南日本と東北日本の境界として知られています。事実,西南日本には古生代・中生代の古い岩石が多く,それらが東西に帯状の分布を示しています。これに対して,東北日本は新生代の地層と火山(噴出物)が非常に多いです。
 日本列島各地の地層や岩石と地質構造を共通項でまとめていくと図のようになります。これは火山岩などの物質を取り除いて基盤だけを見たものと考えてもけっこうです。
 西南日本ではいくつもの構造帯がほぼ東西に延びています。しかも,最も内側の飛騨帯から外側の四万十帯まで,時代順に並んでいます。そして三波川変成帯と領家変成帯の間に中央構造線が走っています。中央構造線とその周辺の構造帯は,一時的に糸魚川−静岡構造線で北に湾曲をするものの,棚倉構造帯まで続いています。
 一方,東北日本を見ると,南北方向に構造区分がなされています。構造区分の境界の多くは断層で,左横ずれになっています。すなわち,大きく見ると右雁行配列(ミ型)になっているとみなすことができます。日本海の拡大と関係があるかもしれません。
 以上から,西南日本と東北日本の境界は,現在は糸魚川−静岡構造線ですが,古い時代には,棚倉構造線にあったと考えられることが多くなっています(最近では,畑川断層を古い時代の境界とする意見も出ています)。

■地体構造の断面で考えられること
 西南日本の地体構造が東西に並行し,南側に新しくなる状態を断面図で見てみます。左端に大陸地塊があり,右端にプレートの沈み込のある海溝が描かれています。その間にはほぼ沈み込むプレートに平行して変成岩や非変成の岩体があります。そして大陸から離れるほど新しい時代になり,地層の重なりの下位になっています。
 図を単純化してみると,プレートの沈み込みによる一連の変化が読み取れるように思われます。例として「1億年前高圧変成岩」について考えてみましょう。
 1億年前ごろかその少し前,この文字のあたりに海溝があってプレートが沈み込んでいました。すでに存在していた2.2〜1.4億年前の岩体に低角度でもぐり込み,上位の岩体とプレートの表層との間の摩擦で接触部周辺の両岩体は圧縮され,破断し,何層にも積み重なります。一部は跳ね戻って低角逆断層になり,両岩体が混じりあった状態になって,その場に取り残されるものもあれば深部に持ち込まれるものもある,という状態になるのでしょう。プレートのやや深い位置の岩石は破壊されずに深部まで持ち込まれるのかもしれません(図には描かれていません)。
 深部に持ち込まれた岩体は,高圧のために,いわゆる高圧型の変成岩に変わっていきます(1億年前高圧変成岩)。またある部分は,変成されてからプレート表層部と同じように破断されたり,逆断層で上の方に押し上げられたり,ということも起こるに違いありません。さらに深部に持ち込まれた岩体は,高圧のもとで含まれていた水が絞り出されるといわれます。水が上昇し,圧力が低くなってくると岩石が溶けやすくなり,大量にマグマが発生します(図のKと記号のあるマグマだまり)。マグマだまりは海溝からかなり大陸寄りにできます。マグマだまりの周辺にあった岩石はいわゆる低圧高温型の変成作用を受けます。また,冷却固化したマグマ溜りは,のちのち花崗岩〜閃緑岩質マグマの貫入として,われわれの目に触れます。
 この過程を通して海溝側にプレートの岩体が付加されます。これは地表の隆起にも寄与するでしょう。ただ,こちらはすぐに風化浸食されるでしょうから,目だたないと思われますが。
(橋本)
◎参考2…日本列島の生い立ち

 日本列島の生い立ちを平朝彦著『日本列島の誕生』(岩波新書)によってみてみましょう。
 平朝彦著『日本列島の誕生』(岩波新書)には次のような各時代の日本列島の姿の古地理図が掲載されています。この古地理図に示された各年代は,それまでの変動の結果,その時点で見られる地質構造を図示したもので,前の年代から次の年代までの変化が描かれていると考えてよいでしょう。
 なお,図の中で勘違いしやすい点を指摘しておきます。それは当時の‘日本列島の形’です。この部分は‘陸’の部分を表わしているのではありません。たとえば,ある地域(縦線の部分)に海成の地層があれば,現在のその場所は当時浅海(白地)であった,縦線の部分が当時陸であったら陸の点々と縦線の重なった記号,というふうになっています。

[はじめに] 阿武隈山地と棚倉構造帯に関連する古地理図は約1億3000万年前からのものですが,その直前には世界的に見ると,右図のような分布になっていた考えられています。古地理図は,その次の段階からになります。

[約1億3000万年前] 現在の南シナ海からシベリア沿岸にかけて,大陸の周縁には長大な断層がありました。断層は海洋プレートの運動と同じ方向の左横ずれ運動をしていました。また,断層は現在の中央構造線にあたり,現在の日本列島を縦に二分した形になっていて,それらがたがいに近づくように動いていました。

[約7000万年前] この6000万年間に大きな変化が2つ起こっていました。1つは中央構造線の内側の部分(内帯)が陸化して大陸の一部になっていたこと,2つ目は中央構造線の外側の部分(外帯)に相当する海域が内帯に隣接するようになっていたことです。陸上では広大な地域でカルデラ火山の活動が起こりました。おそらく大規模火砕流があちこちで発生したでしょう。濃飛流紋岩などがこれに相当します。大量のマグマは地上に噴出したものばかりではなく,もっと多量のマグマが地下に貯留されてゆっくり冷えていったと考えられます。カルデラ火山は外帯側には見あたりませんが,地下に巨大なマグマ溜りができた可能性はあるのではないでしょうか。阿武隈山地の花崗岩もこの1つでしょう。地下の巨大なマグマ溜りは周辺の岩石に変成作用を及ぼしていきます。この時代,海洋プレートの移動方向が大陸に斜交し,縁辺に海溝がつくられ始めました(プレートの沈み込み)。

[約2500万年前] プレートの移動は大陸に直交して行われ,低角に沈み込んで以前に沈み込んだ物質を押し上げたり,同じ地層が何枚も重なり合ったりして,陸も海底も上昇させていきました。南方の海底ではマントル物質の湧き出しがあり,フィリピン海プレートが誕生しました。フィリピン海プレートの北縁に浅海部ができ,マグマの噴出が見られる伊豆・小笠原弧となりました。またこの時期,大陸には細長い湖ができていました。

[約1900万年前] フィリピン海北縁で島弧を縦断してマントル物質の湧き出しが盛んになり,海底(四国海盆)の拡大が行われていきました。東北日本では,広大な湖のところには海が侵入し,現在の東北地方は多島状態になりましたが,阿武隈山地,北上山地などは島として残りました。

[約1700万年前] 日本列島にあたる部分の背後でマントル物質が湧き出し,現在の日本海の拡大が始まりました。現在の西南日本が時計方向に,東北日本が反時計方向に回転を始めまています。中央構造線は東北日本で阿武隈山地の西を通って大陸に続いています。阿武隈山地の南から新たな断層が東向きに発生か?

[約1450万年前] 日本海で始まった海洋底拡大のため,西日本は時計まわりに回転して約45度に達しました。北日本も45度程度反時計まわりに回転して,日本列島は逆L字型になりました。フィリピン海プレート北縁の伊豆・小笠原弧は東北日本と一続きになり,現在の東北地方の日本海側には細長い深海ができました。西南日本から東北日本に続いていた中央構造線は,新たにできた断層(柏崎−銚子線?)によって切断されました。

[約800万年前] 日本海は拡大活動が停止し,北日本の多島海時代は終わり,北海道の一部を除いて陸化しました。そのため日本海は内海となりました。

[約500万年前] フィリピン海プレートの運動に伴って,伊豆・小笠原弧の島(現在の丹沢山地)が衝突しました。

[約1万8000年前] フィリピン海プレートの運動に伴って,丹沢山地に続いて伊豆半島も衝突し,中央構造線の一部を北側に湾曲させてきました。湾曲部から糸魚川−静岡構造線ができ,日本海側の湾入部と合体しました。その北側(日本海東縁海域)にプレート境界ができ,新たな沈み込みにより,新潟地震・日本海中部地震・北海道南西沖地震などが発生しています。東北日本の中央構造線は活動せず(?),現在の棚倉構造帯の断層に相当すると考えられています。
なお,古地理図の1万8000年前は最終氷期の最盛期に当たり,海面が100m以上低下し,大陸と陸続きになりました。

 以上,棚倉構造線は,数億年に渡って活動している中央構造線の一部という考えに立って,推定された古地理図を見てきましたが,棚倉構造線に関して別な見解もあります。たとえば,現在使用されている高校地学・の教科書には,右のような推定図が掲載され,日本海拡大時期に日本列島を押し拡げるのに役立ったものは東西2つのトランスフォーム断層で,その東の断層こそ棚倉構造線としています。
(橋本)


p41 です。

[引用・参考文献]

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天野一男・高橋治之(1986)棚倉破砕帯周辺部.日本の地質3 関東地方.共立出版:132-134.
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防災科学技術研究所(2004)防災科学技術研究所研究資料 第247号 地すべり地形分布図 第18集「白河・水戸」.防災科学技術研究所.
豊 遥秋・坂巻幸雄(1989)茨城・福島県下の鉱物産地.日本地質学会第96年学術大会見学旅行案内書:200-224.
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[インターネット参考URL]
・『カシミール』関連
 http://www.kashmir3d.com/
・太刀割石関連
 http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%AB%AA%E7%A0%B4%E5%B1%B1
 http://www5b.biglobe.ne.jp/~miur/points/7/ib73.htm
 http://www1.u-netsurf.ne.jp/~tamu/134tatuware.htm
 http://kirara-hitachi.web.infoseek.co.jp/sampoki/haikinngu/tatuware/tatuware.html

この後ろに、p42,43 7.5万地質図「助川」の地質図と凡例が、車窓の展望用につくのですが、省略します。