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第2回全国地形地質の旅 関東山地北部の記録アルバム 記録4

 実施期日 2004.09.09-10      
 目次  全国地形地質の旅の趣旨 →こちらへ
  記録 0 全体ルートと千葉から地点1まで → こちら
  記録 1 地点1(宝登山)から地点6(浦山)まで。 → こちら
  記録 2 地点7(杉峠)から地点17(柏木)まで  → こちら 
  記録 3 地点18(叶山)から地点22(志賀坂峠)まで  → こちら
  記録 4 地点23 札所31番観音院 ↓ この下 
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雨のため、山中地溝帯の観察ポイントは省略して、秩父盆地西縁の第三紀礫岩層の山を見に行きました。
Loc.23 秩父31番札所観音院付近 地質・地形図。作図 石井良
2.5万分の1地形図「長又」 + 5万分の1地質図「万場」 + 埼玉県地学ガイドの「3−6 秩父盆地のその周辺」の図6-18「岩戸の沢周辺の地質図と断面図」 のデータより作成。 
 緑太線:地質区境界(断層か不整合)。赤線:通過ルート

今回見に行った、観音院の山は、馬上礫岩と、その断層線崖。馬上礫岩層は、秩父盆地西縁に発達した過去の扇状地礫層・・・・・地学のガイドに解説あり。

地形で言うと、微地形オーダーの地形です。もっとでかいケスタ地形が観音山で、宮戸層の凝灰質岩、子ノ神砂岩層がケスタを作っているようですが、いい観察ポイントがありません。
 地点23 小鹿野町飯田観音山 観音院(札所31番:曹洞宗)

秩父盆地を埋める第三系の礫岩・砂岩(馬上礫岩層)の断層線の侵食崖・岩壁を利用した山岳寺院です。
◆ 岩質と微地形の観察場に好適

今回見に行った、観音院の山は、馬上礫岩と、その断層線崖。馬上礫岩層は、秩父盆地西縁に発達した過去の扇状地礫層です・・・・・地学のガイドに解説あり。

左の図は、埼玉県地学ガイドの「3−6 秩父盆地のその周辺」の図6-18「岩戸の沢周辺の地質図と断面図」 です。
馬上礫岩と観音院の位置を示す。

観察した観音院の境内は、地形的には低い山で、崖に洞窟が発達するという程度の、地形で言うと、微地形オーダーの地形です。
 断面図に示されているように、もっとでかい地形が観音山の高まりで、宮戸層の凝灰質岩、子ノ神砂岩層がケスタを作っているようです。今回は、いい観察ポイントが分からず、見ませんでした。

こちらの画像は、注記無いものは、 が撮影
山門、明治元年のでかい石の仁王像。山から出た砂岩で作ったもの。

境内はこの山門の上だが、境内全体が断層線に沿う谷斜面が崩れた大きな崩壊地で、巨大な礫岩の崩壊ブロックで埋まった谷になっている。

山門の後ろの斜面が崩壊ブロック。
→ 崩壊地の詰め上げの崩壊ブロック上に本堂、背後に清浄の滝がある。


本堂(滝の脇で木に隠れている)と境内背後の崖・滝

崖の中腹には石仏の置かれた岩窟。上に述べたように、断層線を掘り出した、でっかい昔の大きな崩壊地地形を利用した寺です。

崩壊前は、硬く締った礫岩層の山で侵食しにくい岩だったのですが、山門→奥の院方面へ断層線が入っていて、そこが弱線になり、断層線に沿って川の侵食が進んでいたが、本堂の下で川が左にまがり、断層線からそれてしまった。それで、川が侵食力の無い無能な川だったので、硬い締った礫岩層を削れずに、滝になっていたのでしょう。その部分の滝面と滝崖がその後大きく崩れたようですね。
地形学的には、崩壊地内の河川敷にお寺がたっていることになり、まともな川なら、すぐさま本堂ごと流されてしまうでしょうけど、洪水にはならない無能な川のようですね。

 滝:清浄の滝

落差は、見える所で20mぐらいかなあ。測ってないからなんともいえませんが。

厚い硬く締った礫岩層からできている。
無能な川で、崩壊後も侵食できず滝面がほとんど削れていません。

千葉県でも、滝と信仰施設とは相性がいいのですが、その場合、無能な川の無能な滝あるいは、人工・加工された滝が選ばれています。ここも同じですね。
← 滝の右の岩壁

砂岩層のところが、岩窟になっていて、岩窟までの岩壁上のルートは懸崖面の危路。
岩窟は、今は石仏がおいてあるが、以前は修行場になっていたらしい。

→ 岩壁下の彫刻

中世に岩壁の細砂層に刻まれた百体仏。
 500年間洪水が無いということでもある。

 滝の滝面と滝崖
滝面が全然凹んでない。滝が無能な滝であることを示す。
庫裏の脇の砂岩層の露頭

 風化して凹んで岩窟になる寸前の状態。
◆ 秩父の山奥と、房総の海岸沿いで見られる、同じ、露岩の風化・侵食作用
砂岩層が風化してサラサラと崩れて凹むだけでなくて、崖の表面が固結した風化殻になって、保護もしていることに注目。
仁王門から寺にかけての断層面の掘り出された大岩壁の表面に、この両方の作用で、岩窟化したものから、浅い凹みまで、いろいろの段階の凹みが見られる。
 形も働いている風化作用も、房総半島の海岸近くの露岩の崖で、そこいらじゅうで見られる、タフォニーの穴と、浅い岩窟を作っていく作用と同じものではと思います。

崖の表面に、風化殻が見られます。



石井良三氏撮影
石井良三氏撮影
風化殻の形成と砂岩層の風化剥落とが、両方働いて、いろいろの段階の岩窟化した凹みが見られる。
石井良三氏撮影
石井良三氏撮影
 ◆ 秩父札所に多い山岳寺院と地質の関係について

 以前、他の用で、この観音院ほかの山岳寺院を訪ねたことがあるのですが、そこで思ったこと。
別のHPに書いてありましたので、少々手直しして掲載します。

観音院のある山は、掘り出された断層崖で大岩壁をなしています。
その地層は、秩父盆地を埋める、
中新世の礫岩と砂岩の互層急崖が礫岩層、石仏のある急崖の洞窟が砂岩層からできている。
断層崖でなくても、礫岩は硬く締っているので垂直に割れて急崖になりやすく、砂岩層はサラサラ風化しやすくて窪みになりやすい。
<小鹿野町の31番観音院の地形>
裏山は急な大きな崖で、厚い礫岩層とやや薄い砂岩層の互層。
礫岩の層の部分が垂直の割れ目が入って崖が崩れ、垂直の崖ができ、滝が懸っている
崖の途中に砂岩層に沿った窪みがあり、石仏が置かれている。昔は修業したんでしょうね。
寺は、わざわざ急な崖と窪みのあるコワーイ所を選んで建てられています。境内も崩壊ブロックの上の狭い平地ではないかと思われる。
<観音院の裏山の石仏群のある窪み>
砂岩層の部分が、地層面に沿って窪んでいる様子。
 秩父札所のお寺には、もと修験系の寺院が多いのですが、それらの寺は、険しい崖を境内に利用し、建物が作られていたり、崖下にあいた地層に沿った窪みや洞窟を利用して石仏を設置したりしています。
 険しい急崖や崖下窪みがあるところが、俗界を離れた異界として修験系のお寺にふさわしいとされていた、ようするにお寺の立地と地形が関連してると言えます。

  
険しい崖・窪み地形→俗界を離れた異界→修験やなんかの宗教上の適地選択→お寺ができる ということになる。

 それで、そんな地形がなぜたくさんできたのかというと、侵食されるとそのような地形を作りやすい岩質の地層が秩父盆地の周辺にあるからと、いえます。

 つまり、風が吹けば桶屋が儲かる式に表現すると、
  地質→侵食→険しい崖・窪み地形→俗界を離れた異界→修験やなんかの宗教上の適地選択→お寺ができる
 ということになり、これは、風・・と違って、結構正しい理屈と考えられます。

 さらに、この連鎖反応が、秩父地方で多く発生した=地方的な現象であった 
といえます。
  
 この連関の、自然条件部分としての、地質→侵食→険しい崖・窪み地形が、秩父地方でなぜ多数発生したのか、つまり、崖・窪み地形の地域的偏在の理由は、次の通り。
 ------直接の理由-----
 崖・崖下窪みを作り易い岩石は、このお寺のように、硬く締った礫岩層と、固結度のよりすくない砂岩層の互層ということになります。上にも書いたように、礫岩は硬く締っているので垂直に割れて急崖になりやすく、砂岩層はサラサラ風化しやすくて窪みになりやすい。
 そして、秩父盆地の盆地周辺沿いにある低い山にだけこのような岩質の地層があり、その外側の秩父盆地のまわりの、より古い岩石の山や、より盆地の内側の新しい地層の丘陵には、このような岩質の地層が無いのです。
  ↓
 --理由の地史的理由---
 秩父盆地の地形は、
1。周りの高い山と、
2。盆地周辺沿いの低い山、
3。盆地内部の低い丘陵・台地、
4。盆地を排水する荒川沿いの河岸段丘平野 
に分かれます。

その地形ごとに地質を見ると、
 1。の秩父盆地のまわりの山は、長瀞の所の三波川結晶片岩や、武甲山などの石灰岩や両神山などのチャートをふくんでいる秩父系という中生代の地層・岩石でできています。この地層は、固結が進んで岩質の差があんまり明瞭でなく、さらにメタメタに割れ目が入っているので、それに沿って崩れていき、地層に対応して崖・窪み地形を作ったりしないようですね。
 ところが、秩父盆地は第三紀中新世からこの中生代の岩石の山の中にできた盆地で、そのころは入り海になっていてその海にたまった厚い地層があり、今は陸化して、侵食され、2。の盆地周辺沿いの低い山になっています。

 この入り海(盆地)を埋めた第三紀中新世の地層は、地層名は、彦久保層群・小鹿野層群・秩父町層群など(ちなみに地層名は良く発達している場所の名前です)。おもに、礫岩層、砂岩層、泥岩層などの海底の堆積岩です。

 その礫岩層と砂岩層が、ほどよい硬さと締りぐわいで、険しい崖・窪み地形をつくるわけです。構造運動でめちゃくちゃに揉まれてもいないので岩石に割れ目が少ないですし。

 なお、この地層より新しい第四紀の礫岩層や砂岩層も、3。の盆地内の丘陵になってあるんですが、時代が新しく、固結してないので、全然硬くなく、こんな崖はできません。

  さらに、2。の山の地層でも、盆地の周辺と中央とでは、場所によって、礫岩層のあるなしが違ってきます。 つまり、一般に、海岸近い所には、礫が溜るよね、海岸から離れれば砂から泥になるよね、という法則がありますが、この中新世の海の地層もそうで、今の盆地の山側に近い地層は、同じ時代の地層でも、大体、礫岩と砂岩の互層になり、盆地中央部では礫が無く泥になるようになります。
 というわけで、秩父盆地の内側の低い山に、固結した礫岩層と砂岩層からなる山が多く、それが侵食されて、険しい崖・窪み地形を作っている所が多い。ということになります。

 

 つまり、
『1500万年前に海があったことが、秩父札所の山のお寺と関係あるのよね』という、仏教でいう因果応報のことわり的な説明が、成り立つ
わけです。 
 別にいえば、地域の自然と人間がかかわってきた結果ともいえます。
 ・・・というわけで、これで、終りまで来ました。
 解説の追加や画像の変更、ございましたらよろしくお願いいたします。